- Seaside Cafe COTTON -(Story)


          











  

『アナクロニシティ』



軽音楽部のミーティングが終った琴音は、いつも通りと、
ぼとぼと学生会館の階段を上がって屋上にやって来たのでありました。

「夜風が気持ちいー!ヒーヒッヒッヒッヒ!」

屋上のベンチに腰かけると、水筒を出して、キーーーンっと音がするほど
冷えたミントティを飲んで、「プハァー! 五臓六腑に染み渡るじゃまいか!」
とおじさんみたいな感動をしている。

立ち上がって屋上のフェンスに寄りかかり下を見下ろすと、
サンセット通り商店街の灯りが見える。
大人も含めて年間平均300人の迷子が訪れるという不思議な商店街だ。
迷子になった人々はあまりの居心地の良さに、
そのまま住み着いてしまうらしい。
琴音の祖父も戦争最中に疎開するはずが迷子になって、
この町に住み着いたのだった。
祖父はサンセット通りの飲み屋さんで、
特攻隊で死んだはずの友人と会ったと言っていた。

商店街のずっと先にはビーチが見える。
物心ついた頃から、水平線の所で夕陽が鎮座ましましたままだ。
なのに、誰もそれを不思議に思わないらしい。
だから、朝昼晩は時計と海辺之学園の鐘の音だけが頼りなのだ。

何を思ったか、琴音は茶話室と呼ばれる屋上の
階段の突き当たりにある小さな部屋に入って、
壁にぶら下げられたガッドギターを手にして、
もう一度屋上のベンチに腰かけた。
そして、囁くように歌いはじめた。

「雨に濡れ立つおさびし山よ〜われに語れ
 君の 涙の そのわけを〜」
アニメ『ムーミン』の中で吟遊詩人スナフキンが歌う
『おさびし山』の歌だ。

サンセットシティでは、宇宙からの電波障害がひどく、
琴音の家にもケーブルテレビを入れたばかり。
彼女は『おさびし山』を完全コピーしていた。
「夕日にうか〜ぶ おさみしやま〜よ〜♪
 われ〜に語れ〜君の〜笑顔の〜そのわけ〜を〜」

琴音の歌を聴きながら演劇部は発声練習に励み、
星を見る会の連中が望遠鏡を立て、
大道芸倶楽部が見事なジャグリングを披露していた。

「ちょっと、ことね。あんたこんなとこでなにやってんのよー!?」
サイドが茶髪の歩く時代錯誤少女、すみれはこの日、唐突に現れた。
大映ドラマに出てくる不良少女ふうのいでたちではあるが、
彼女はタイムワープ入学ではなく、
紛れも無くリアルタイム入学した現代の学生だ。
あちらこちらの友人の時代にタイムワープしているうちに、
だんだんと珍妙な風体になったらしい。

(二人の背後で、1980年代からタイムワープ入学してきた学生が、
 声を出さぬまま沼すみれを指差して
 おなかをかかえて笑っているのが見える。
 やはり何か時代考証が可笑しいらしい)

「ややや!沼ちゃんではありませんか!聞いて聞いて!
 おらね、『おさびし山』を完コピしただよ!」
琴音の言葉は完全スルーで沼すみれは頬を高揚させて、
「さっき、安保の集会いってきたのよ。あんたもギター弾き語ってないで、
 ブントかなのシンパになんなさいよ。
 いまなら火炎ビンの作り方無料案内中よ。(ビラ貼り付け。ベタ)」
と、琴音の額にカクカクした油性マジック太字のビラを貼り付けた。
琴音は額の紙を剥がすと、不機嫌な顔で
「どっかの時代に行って感化されたんでしょ!?
 わたし、ノンポリだかんね!」と抗議した。

「セクトが移動するらしいのよ。いーのなんだって。
 そーそ、ペンダントあげるわよ。
 なうい、らぶあんどぴーすよ。うどすとっくも感激よ!
 あ。それ鈴ニッケルの安っちーやつだから、
 金アレもってったら痒くなっから」 といいつつ、
 サクっと琴音にペンダントを手渡した。

「ありがとー!」ことの他、嬉しそうだ。
「なぁなぁ、そのスマイルバッチもおくれよぉ。
 あとさ、その底の分厚いバスケットシューズなに?」
琴音は目を輝かせて沼すみれの足下を指差した。

「これ?いまをときめくニューバランスの厚底8枚仕立てよ。
 このまんまマックでドナルドのバイトもラクショーみたいなー。
 って、なんでもほしがるとこ、むかしとかわってないわあんた。
 っていいながらスマイルバッチも渡しちゃう」

(通りすがりの70年代からタイムワープ入学してきた学生2人が、
 すみれの厚底スニーカーを見て、肩を叩き合って大笑いしている。
 やっぱり時代考証にどこか難があるらしい。)

琴音はギターを抱えたまま「考えてみたら校則破ったことないなぁ。
 おらも赤いヤッケ着ようかな?」と呟いた。

「なに思案に暮れてるのよ!?
 おひょいがうろついってから、高田馬場に行くよ?ニケツしてく?ぁん?」
「おー!」左の胸に燦然と輝くスマイルバッヂ。
「いーじゃん。なういわよあんた。
 っていうか、馬場でこれから内ゲバの集会あんのよ。
 って、こんなんばっか話すから年齢不詳にされるんだアタシ。ブツブツ」
どうやら琴音も覚悟を決めたらしい。
「おらも行くがね!おらも紅一点、樺美智子みたいに闘争の中に散りたいがね!
『二十歳で減点』とか書きたいがね!」
肩のストラップを引いて、くるりと裸のままのギターを背中に回した。

「あんたそれ『二十歳の原点』だってば!『で』じゃなくってぇ『の』だから。
 それとね減点って語尾下がらないからね?訛ってるよ?
 土支田訛り?(土支田は練馬区の高級住宅街だ!)
 はい!まずこれ!
(田舎の中学生御用達のチャリ用白ヘルと赤マジック渡して)
 よし!2ケツで馬場に行こー!その前にソレ、まっかに塗っときなさいよ!」

「なんか赤く塗りつぶすのはいいけど捕まったりしない?でも、
 学生時代の父ちゃんがいるかもしれないぞ! シュプレヒコールの〜なみ〜」
「いーのよ!ポリに捕まったって、補導で済むから。美しき10代ヘヘーンだ!」

美しい10代!! じゃー行こう!GOGO??
「チャリ出して待ってから。って、あんた、足はやっ 」



BGM Bob Dylan『風に吹かれて』
2016年10月26日 10:40

『1959年から来た留美子ちゃん』




下校時間を知らせる鐘の音が、海辺乃学園に鳴り響いている。

この学園がある迷子町は、確かに時間は流れているが、
景色は永遠に夏の終わりの黄昏時だ。
だから、人々は町に鳴り響く学園のチャイムを聞いて、
あぁ朝だ。もうお昼かと時の流れを認識するのだ。

その黄昏の校庭を、とぼとぼと高等部2年C組の津島琴音が歩いていた。
その背中から声をかけてきたのが2年Y組の留美子ちゃんだった。


「こっとちゃーん! 今日うちに遊びに来ない?」
「行く!行くっ!」

二人は校門のところに立っている守衛さんに
「帰ります!1959です!」と声をかけた。
守衛さんは笑顔で「いいねぇ。いい時代だよぉ。」と答えて
警備室の中にある機械のボタンを押した。

海辺之学園の学生たちは、様々な時代から来た者達ばかりだ。
だから、下校する時は守衛に声を掛けて、それぞれの時代に帰る。
留美子さんは1952年生まれで、本当は1959年の高校2年生というわけだ。

西欧の宮殿のような門扉が開くとそこは1959年だった。
津島琴音の母親が生まれた昭和34年の街だ。

「あのさぁ、留美子ちゃんちに行く前に、
 わたし行きたいところがあるんだよね!」
琴音が言うと、留美子ちゃんは快く「うん!つきあうよ」と言ってくれた

車窓から見える昭和の街並み。
琴音は窓に顔をぴたりと付けて何度も感嘆の溜息を漏らした。

「建物が低い!」「見て!あの壁!雷おこしか落雁みたい!」
琴音がどんなに興奮しても、留美子ちゃんにとっては見慣れた景色だ。
車窓の景色より、琴音の反応を見ている方が面白かった。

品川駅に着くと更に琴音は興奮した。
(高い建物には高い建物だけど・・・・2階建てだぁ)
確かに壁はコンクリートではあるけれど、
立派には見えるけれど、2階建て………。

留美子ちゃんは、呆然としている琴音の手を引いて
勝手知ったる構内を山手線のホームに向かった。
やがて電車を待っていると黄色い電車が走ってきた。
そこでまた琴音は驚いた。

「山手線は総武線とおんなじ色なんだ!」
「うん。でも最近よ。最近カナリア色になったの」
総武線は東京の三鷹から千葉まで直線で走る電車だ。
現代でも、黄色い線が入っているが、真っ黄色は古い総武線だ。
その昔の総武線が山手線のレールの上をぐるぐる回っているのだ。
「グルグル回る総武線って不思議だなぁ」
見るものすべて新鮮であった。

2人は、上野駅で降りると浅草行きの都電に乗った。
都電の周りには沢山の新品のクラッシックカーが走っている。
どれも人間的な温もりが感じられる可愛らしいクルマばかりだ。
そして、しばらくすると車窓に茶色い塔のような建造物が見えた。

「あ!あれ、あれ何?」琴音が尋ねると、
留美子ちゃんは当たり前のように「仁丹塔だよ」と答えた。
「仁丹塔?あー!Wikipedia見たいなぁ」
なんだかよくわからないものばかりだけれど、
3か月くらい街を探検をしてみたい。
強いては、留美子ちゃんと交換留学生でこの時代に転校したい。
そんなことを考えているうちに目的地に着いた。

交番で道を尋ねると、東北訛りのおまわりさんが
親切に地図を描いてくれた。
おかげで二人は思ったより簡単に丸貞という料亭に辿り着いた。
この料亭こそ琴音が来たかった場所だ。
数寄屋造りの建物が白い塀の向こうに見える。
木戸が開くと若い夫婦が出てきた。
咄嗟に琴音は留美子さんの手を引いて電柱の陰に隠れた。
「刑事さんみたいね」耳元で囁く留美子さんの声を聴きながら、
琴音は息の呑んだ。思わずカラダが固まってしまった。
留美子ちゃんは琴音の横顔を見て首をかしげた。

「だぁれ?知り合い?」小さな声で囁く留美子ちゃんの方は見ずに、
真っ直ぐ若い夫婦を見ていた琴音は一粒だけ涙を流した。

その夫婦は、34歳の祖父と26歳の祖母だった。

一瞬、木戸の奥を子供が駆け足で通り過ぎた。
(お父さんだ!絶対にお父さんだ!)

しばらく呆然としていた琴音は留美子ちゃんの方を見て
「つきあわせちゃって ごめんね。実はね、今の、
 わたしのおじいちゃんとおばあちゃんとお父さん」
照れくさそうに説明をした。

留美子ちゃんは掌を口元にあてて「まぁ」と小さな感嘆の溜め息をついた

留美子ちゃんは聖母のような微笑を浮かべ
「今日は記念になる日だわね。よしっ!何かおごるわ。
 折角浅草に来たんだから、
 うん。そうだ!梅園に行きましょうよ?」と言った

「もしかして甘味処?」
「そうよ。琴音ちゃんの時代にもあるの?」
「梅園って、おらの時代にもあったような気がするよ」
「女の子が おらとか使っちゃダメよ」

留美子ちゃんは微苦笑を浮かべて琴音の言葉遣いを咎めた後、
いかにも昭和の乙女らしく鞄を下げ胸元に本をたずさえ、
軽やかな足取りで先を歩いて行った。
琴音は、その後ろを、まるでおのぼりさんのように
きょろきょろしながらついて行くのでありました。



おわり
2016年10月26日 11:22

『元気をだして』




朝からうんざりするようなことがあって2年C組の津島琴音は
1時間近く遅刻をして学校に辿り着いた。

担任の千里厳太先生は、遅れてきた琴音がどう理由を言おうか、
口を開けたまま言い澱んでいたら
「いいよいいよ、大変だったな」と笑った。

運の悪い日は次々と嫌なことが起こるもので、
クラスメートとの間でも、ことごとく裏目に出るような失言を
口にしてしまった。

正門で守衛さんに挨拶をして、誘ってきた友達に「今日はごめんね」と
掌で遮って、サンセット通り商店街を一人とぼとぼと歩いていたら、
何者かにスカートの裾を引っ張られた。

振り向くと茶色い麻袋みたいなシャツを着た3歳くらいの男の子が
スカートの裾をつまんでいて、その男の子の後ろに、
黒いミニのワンピースを着た5〜6歳の女の子が、
丸くて大きな瞳でこちらを見て、小さな鼻をひくひくさせている。

「なぁに?」と尋ねても何も答えず、ただ人懐こい笑顔で見上げている。

「う─?」

すると今度は立派な髭をたくわえた老人が歩み寄って来て、
琴音を「ママっ」と呼んだ。

「へ?お母さんのこと!?お水のママ?」

(眼差しが純真過ぎて怖いよっ!)

心の中で叫んでいたけれど、3人の顔がどこか懐かしくて、
今日はこんな日なのかなと苦笑いした。

「わたしはママじゃありませんよっ。それじゃね」

なるべくやんわりと断って、歩きはじめたのだが、
3人はにこにこ顔て琴音の後をついてきて、離れようとしなかった。

しかも、
レストランの前に来ると、また男の子がスカートの裾を
今度はぎゅっと握って離さず、そのお店のドアを指さしている。

髭の老人までもがおなかを空かした犬のような瞳を潤ませて
「・・・・ごはん」と。

琴音は「運が悪い日は厄落としに誰かに施すのさ」と言っていた
祖母の言葉を思い出し、肩を落として
3人を伴ってレストランに入った。

メニューを開くと、
子供はサラダのところを指さし、老人はスペアリブを指さした。
「え?それだけでいいの?ほんとに?甘いものは?ハンバーグは?」

3人は揃って首を横に振った。
「ほんとにいいの?遠慮しなくていいのに」
しかし、3人は目を輝かせてメニューの一点を指さしたままだ。

琴音はケーキと紅茶、老人はスペアリブ、
子供たちはサラダで食事を済ますと、
お店を出て、また隊列を組んで歩きはじめた。

(ひぇぇぇ!まるでブレーメンだよ)

途中、公園の前でまたスカートの裾を握られ歩みを止めると、
3人は走って噴水のある池に向かって行って、
池の水を飲みはじめた。

「ノォォォォォ!ダメぇ!」

「おなか壊すってば!」 男の子の首をつかんで池から離すと、
もうたっぷりと水を飲んだ後のようで、
3人とも満足げな笑を浮かべていた。

「ウハハハハハハハ!ギャハハハハハハ!」

あまりの奇抜な行動に琴音をおなかをかかえて大笑いした。

老人がどこから持ってきたのか汚れたサッカーボールを差し出すので、
半ば諦めの気持ちで4人一緒にボールを蹴ったり追いかけたりして遊んだ。

ひとしきり遊んだ後、
  「ちょっとお手洗いに行ってくるね。おじいちゃん鞄見ててね」
と言って、琴音が手洗いに行って戻って来ると鞄とサッカーボールだけが
ベンチに置去りにされて誰もいなかった。

「お〜い!おじいちゃーん!」
あれぇ?おかしいなぁ
「ぼーくー!?」ねいちーん!」
(帰っちゃったのかなぁ)
「チェッ とんだ散財だったよ」

琴音は落ちているサッカーボールを思いきり蹴ると、公園を後にした。

「まったくぅ」

でも ちょっと可笑しかったな。
自然と笑いがこぼれてきた。

琴音は家に帰ると、2階の自分の部屋に戻って、
いつものように2匹のウサギ小屋に声をかけようとした。が、

(あれ?いない)声をかけようと思ったらペットのウサギがいない。

慌てて階段を駆け下りて
「お母さん!キナコとアンコがいないよ!」と母親に言うと

「え?おかしいわね。(津島家の老犬)ポンポンもいないのよ」

母親が首を傾げて犬の名前を呼んでも家は静まり返っている。



「外に出て行ちゃったのかなぁ!?」

琴音が慌てて玄関に駈けて行くと、
ポーチのところに麻袋みたいな色のウサギと、
黒いウサギと、
眉毛と髭で顔がぼやけてはっきりわからない老犬がきちんと並んで
こちらを見ていました。



おしまい
2016年10月26日 12:15

『犬とユウレイ』



或る日のサンセットパーク。
芝生の上で1匹の老犬が海を見つめていた。

「最近、歳なんですかねぇ?体調がすぐれないなぁ」

老犬の名はポンポン。既に生まれて13年経っていた。

「大旦那様ーー!」
周りの人間には吠えてるだけに見えるけれど、飼い主を呼んでみた。

すると、老人の幽霊が突然現れて田中邦衛の声色を真似た。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジューン!」

老犬は、息をハァハァさせて、尻尾をプロペラのようにブンブン回した。

「わぁぉ!大旦那様!」

「おー!ポンポン元気でやってるかーい?」
老人の幽霊は、ベンチに腰かけると愛おしそうに老犬の頭を撫でた。
「嗚呼!大旦那様の撫で方は相変わらず絶妙ですね!」
「おまへは、あい変わらずヨイショが上手いねぇ」
そう言うとポケットから骨ッコを取り出して老犬に差し出した。

老犬はパクっと口に入れるとカッカッカッと音を立てて噛み砕き、
たちまち飲みこんでしまった。
そして「さすが元板前さんです!お味も絶妙です!」
と、おべんちゃらを言った。

「バカ言っちゃいけないよぉ。
 板前が骨ッコなんてもの作るかいっ!ハッハッハッ」
渇いた笑い声がするのが、通りすがりの女子高生、
 沼すみれの耳に聴こえた。

すみれは、あたりをキョロキョロした後、
「疲れてるのかな?」と独り言を呟いて通りすぎた。

「大旦那さまぁ、最近あたしも歳なのか、昔みたいに散歩も楽しくなくて、
 なんのために生まれたのかなぁとかネガティヴなこと考えちゃうんですよね」

老人の幽霊は腕組みすると、
「おまへ、それはあれだよ、おまえは頭が良すぎるんだな。
 いいか?花が咲いてる理由考えるか?死ぬまで生きりゃいいのよ」

老人の幽霊と老犬は静かに海を見つめて、
何か今現在がとてつもなく懐かしい過去のような錯覚に陥っていた。

「大旦那様?なんだかいま、一瞬ですけれど、
 生きてるのが懐かしい気がしました」

「あ〜〜?俺もだよ(笑)俺は死んでるから格別だなぁ」
そういうと快活な笑い声を上げた。

老犬は息が荒かったのが、だんだんと呼吸が落ち着いてきていた。
老人はそれを見て「案外とこちらはいいぞ」と静かに声をかけた。

「若旦那様やことねんが心配でして」か細い声で老犬が呟いた。
「ハハハハハハ…!おまへ!琴音だけ呼び捨てなんだな!」老人が又笑った。

その笑い声を聞きながら、老犬は安らかに眠り、3分の間、返事がなかったが、
肉体から魂が離れて、それがすっくと立ち上がった。

「あれ?大旦那様?」
老人が老人を見上げた。

「うん。おまへは今日から俺の仲間だなwどうだ?海の上でも散歩するか?」

「そんなことができるんですか!?」

「自由だよ!」

2人は顔を見合わせた後、
まるで、悪巧みしている男の子のようにニヤニヤしながら歩きはじめた。

「大旦那様!波の上を散歩する前に、斉藤さんちのマリーちゃんの
 しどけない寝姿を見ときたいです」
「おー、いいね。もう噛まれる心配もないからなぁ」

二人?が公園を去った後、図書館帰りの沼すみれが、
本を読みながら歩いてきて、老犬の亡骸を発見した。

老犬の亡骸が、津島琴音の家の犬だと気づいたすみれは、
カバンからスマートフォンを取り出すと、
つぶらな瞳に涙を溜めたまま、琴音に電話をかけた。


「ことねん?・・・・・」
「うんうん・・・・・」
「あのね、ことねんとこのポンポンがね・・・・・」



完は未完の『完』
2015年12月13日 14:11:12

『藤岡弘学年主任の場合』



勢いよく教室のドアが開くと、半袖のサファリジャケットの腰に
太いベルトを付けた男が現れた。
大きなカラダだ。今どき珍しいモミアゲをたくわえている。

柔和な眼差しで学生達を見つめると、
「ハーッハッハッハッハ! やぁ、学年主任の藤岡弘だ!」と片手を挙げた。

言われなくてもわかっているので学生たちはシラケた顔で沈黙していた。

「今日は暑いねぇ?勉強に禿げんでるかな?

 ん?この場合文字が違うな。励むだな。ハーッハッハッハ!

 しかしだねぇ、今日は勉強のことは忘れて古武道の話をしようか!?
 ん?興味がない?古武道はいいぞぉ。
 いきなり暴漢に襲われそうになった時に身を守れるんだ。

 勿論、襲う時にも役立つんだよぉ。

 ハーッハッハッハッハ!アメリカンジョークだよぉ。

 例えばだよ、君が通学中に秘密結社の連中に襲われたとしてだ、どうする?

 え?お金で解決?

 ハーッハッハッハッハ!そんなにあるのかい?

 え!Σ( ̄□ ̄;)そんなに

 先生な、今月はピンチでなぁ・・・・.なにせ・・・・家内が・・・

 え?相談に乗る?・・・・う〜〜ん。」

「ものは相談なんだが 」
「それでな…」



授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り響いた。



おわり
2016年10月26日 12:28

『笑激怪人、その男、用務員 春猿!part 1』



「今日からこの学園に配属された用務員の市川春猿さんです」


週に一度の月曜日に、全学年が集う朝礼が体育館で開催される中、
校長から、挨拶を指名されると、檀上脇から現れた男。
歌舞伎独特の柏木で甲高い音がすると、どこからか
「いよぉっ!」と掛声がかかった。
体育館の照明が落とされる中、身長180はあろうか。
スリムな女形役者宜しくという様。
華麗に舞い歩く用務員の姿が浮かび上がった。

「ア?イ?それは愛………ッ」

歌舞伎には似合わず、絶対に宝塚然とした口調と、
ゆっくり歩く姿は人々の注目を一身に集めるのに十分過ぎた。

「……只今… 御紹介に預かりました、私… 市川……… 市川春猿に候……。
 嗚呼、王妃さまっ!フェルゼンで御座いますっ……」

唖然とする教師と在校生を尻目に第二幕。
フランス革命前夜が行われようとしている。
自己紹介にはまだまだ時間がかかりそうな予感らしい。
一体何者なのか。本当に用務員なのだろうか。

舞台上に登壇した春猿目指して光線上の光りが頭上から充てられる。
「…何故 今頃になって私の前に現れたのか… 貴女は美しすぎます…
 その美貌が私を虜にして離さないならば
 王妃さま… 此の叶わぬ恋… 実らぬ愛…
 貴女を愛してしまった代償は天より高く… 海より深く…」

低音でじっくりと 伸びと張りのある声音は、
宝塚と同じで体育館全体を深閑させてゆく…。
「すみれのハ〜ナ?咲く頃?」
台詞と台詞の合間に合唱が入る。
居並ぶ生徒達を虜にするには十分過ぎるはずだった。

その時だ。
想定外にも何故か校内放送が鳴り響いた。

「……今週の掃除当番は2年C組です。先週も、
 うさぴょん(兎の名前)が脱走したので気を付けて下さい。
 尚、カメキチ(亀の名前)が産気づいてますので
 静かに見守りましょう。」

「……なぁ あのオカマにやらせちゃえよ用務係なんだしさ… 」
「オカマってよりホモじゃん あれ。ちょーキモイんだけど ギャハハハ!」
「 …ぁ、やべ…… ……ぉいオンマイクだよっ!全校集会中だぞ消せ消せ!」

ブチッと放送が途切れると我に返ったのか進行役の教師が、
「あ、ありがとうございました とても声が綺麗で…… 」

其処まで言いながら盗み見る感じで春猿を見ると薔薇を咥えたままの状態で
頬は微かに引き攣っていた。放送委員の運命は 放課後である…。



【to be continued】
2016年10月26日 17:40

『その男、用務員 春猿!part 2 』



「起立… 礼… !」

とある日のクラスの朝礼。いつもと変わらぬ挨拶が始まると、
担任が春猿を教壇に呼び寄せた。

「あら…っ みんなっ ホームルーム中にごめんこーっ!
 おはようございまーぁす?」

歩く脚は小幅に内股に歩く。その姿は女方役者そっくりで、
しかもありえない古風な装いで現れた。
普通なら笑ったり和気藹々としながらも冗談も交えようが。
だが彼は違っていた。口元は笑いながらも眼は笑ってない。

「ねーねー みんなナニ怖い顔しちゃってるのぉ?
 そんな睨まれたらあたし …ちびっちゃぁーう!
 マッジ、か・ん・べーんっっ?? 」

ふつうなら笑えるこのぶりっこぶりを見ても皆押し黙っていた。
先月あった全校集会を忘れる者はいなかった。
翌日、誤ってオンマイクのまま春猿の悪口を流してしまった放送部員は、
翌日頭を丸め退部届けを提出した。
訳を聞いても「自分の一存です。寺に籠って精神を鍛え治します。」と、
日頃、口にしないような言葉を虚ろに呟き、明くる日、休講届けを提出した。
女子のスカート捲りをしたり、悪ふざけが過ぎる子が一転、
殊勝な言葉を口にして去って行った。
一切の理由を明かさなかったけれども、
確実に春猿の息のかかった思惑に違いなかった。

然し、そんな証拠はどこにも無く、誰一人、
彼を責めたてようとする者もなく、
寧ろ逆に、恐るべき用務員が来たものだ。
ヤツはこの学園の影の支配者に違いない!と、
まことしやかな噂が飛び交った。

教壇に上がり、 ちらと席順の書かれた名簿を見ると、
「佐藤くん」 と呼ぶ。
「あたし、ターイプ? 後でいらっしゃーい用務室 キャハ? 」

佐藤くんの唇が見る見る真っ青になっていった…。



【to be continued】
2016年10月26日 15:10

『その男、用務員 春猿!part 3』



春。入学式も無事に終わるとまた一年… 。
平穏な日々を迎えようとしていたとある放課後。

部活の入部勧誘が盛んに開催される恒例の催し。
テントや長机長椅子を出して校門まで、
両側びっしり軒を連ねる中で、
春猿の歌舞伎部サブタイトル"ちょっとだけ宝塚"は、
他の部同様に勧誘に多忙を極めていたが、
今年設立のため部員は0。

「ド・レ・ミ・ファ・どーん♪ どぉーん? そこの素敵な殿方ぁ
 いらっしゃぁ〜い歌舞伎部は如何かしら?
 今ならあたしがマンツーマンで指導し・ちゃ・うっ? 」

明るさを取り繕いながら勧誘するけれど、
生徒は愛想笑いを浮かべて通り過ぎるのみだった。
もし無視などすれば前例があるだけに… 。
あの放送委員事故や佐藤事件に関わりたくないという切実な想いが交錯する。
ちなみに佐藤くんはその後 病気と称して入院。
学園には行きたくないと泣きながら退院するのを拒んでいるという…。
未だに勧誘出来ない苛立ちが募ったのか、笑顔は曇り眉間に皺が寄り… 。
時間と共に人通りも疎らになる中で
件の佐藤くんの親友、竹田くんが通り掛かった。
「わーい… たけーぇ♪たけっちーっ?
 歌舞伎部に入りませんことー?」

内股にして脚をもぞもぞさせながら、ジーンズと薄紫のセーター姿の春猿は、
一層色気を募らせるも、体よく断る彼の雰囲気に撃沈色濃厚と感じとり、
可愛らしく手招きして竹田くんの腕を強引に引っ張ると、
「てめぇ無視かよッ… 歌舞伎部に入るのか入んねーのか? ぉい こらッ…!」
胸倉を掴み、股間を手で握り、ドスの効いた声音で強制的に尋問すれば、
震え青褪める表情は佐藤くんと変わらず、
逃亡も出来ず唯 涙目に頷くしかなかった。

「……意外に素直じゃなーい♪ 入部おめでとっ ウフ?」


竹田くんの学園生活は今から薔薇色に染まろうとしている。



【to be continued】
2016年10月26日 16:32

『その男、用務員 春猿!part 4』



夏。春猿が赴任して4ヶ月が経過した。
とある教室のホームルームでの一コマ。

担任が急病のため急遽 用務員である春猿が代役になった。
他の先生は皆 どういう訳か多忙を極めていたため
スポット的にだが、学園で行われる夏祭りの出し物を
クラスで決めようという議題で参加していた。

綿菓子屋、りんご飴屋、金魚すくい、かき氷、
焼きそば、フランクフルト、射的屋…
色々な案が出る中で どれにするか決定を見ず、
教壇に立つクラス委員も途方にくれていた。
  
春猿はといえば オレンジと黒の
斜めボーダーライン歌舞伎揚げ仕様の、
ポロシャツの第二鈕まで開け拡げ、顔面は白メイクばっちり、
紫の扇子をパタパタと扇ぎ、教壇の横のパイプ椅子に座り
イラついていた。
この酷暑に対してエアコンディショナーは故障、
そして、出し物的に全く興味なかったからだ。

額から流れる汗とひきつる眉間。
「山田っ! 『協力』って お書きなさいッ!!」
教壇に立つクラス委員に向かって大声で叫ぶのだった。

山田くんは黒板に向いチョークで『強力』と書き終わると、
春猿に合図した。

「……『強力』、そう、強いものが勝つ…!
 勝てば官軍 それでいいんだ 弱いものは蹴散らせッ!
 パワーオブパワー……♪ 」

ボディービルダーが自らの筋肉を誇らしげに見せつける様に
身体をS字に折り曲げ、
腕の筋力を見せつけながら…… と。
即、山田くんの胸倉を掴みドスの効いた声音で、

「てめぇ 暑いのにボケてんじゃねーよッ!
 クラス全員、一致団結するのに強力か?!オイ コラッ!」

怯えきった表情で すいませんを連発する山田くんを見据えながら
パッと手を離した。
廊下に教頭先生が此方を覗いていたからだ。

「アラヤダー 山田っち♪ あたしを試すなんてー!
 からかい上手なんだからぁー
 それとも、歳上のお姐さん、好きですかぁ? ンモッ? 」

さて、出し物は何に決まるのでしょうか。



【to be continued】
2016年8月9日 10:35

『その男、用務員 春猿!part 5』



秋の文化祭が終わると一気に寒さがきつくなる感じがする… 。
そう、もう季節は冬支度の装いを肌身に感じる今日この頃。
春猿から「クラスで一大事を告げるから欠席しちゃダメよー?」と、
一週間前にお告げが下った。
のほほんと愛敬を振舞いつつ、
時々ウィンクをしながら上機嫌なのは、
いつの間にか用務員から教員へと強引に格上げし、
このクラスの担任に収まったからだ。
どうやら前任の教師は行方知れずの謎の失踪を遂げたらしい。
クラスでは( …掘られたらしいぞ) と専らな噂が立ち上った。
だが結局は噂の域を出ず、自然と闇に葬られたのだった。
ホームルームの時間、教室の扉が開くと春猿の姿が現れる。

「お・ま・ちーっ? まったぁー?まっちゃったー?
 待ちくたびれちゃったかなぁーっと」

顔面に真白なお粉をまぶし、
オレンジとグリーンの斜めストライプの歌舞伎仕様。
履物は草履と冬も間近なのに見ているだけで風邪でも引きそうな薄らバカは、
生徒の過敏な思いなど知らずに教壇に立てば、
「ごっめーんねー 10分遅刻しちゃったねー メイクに時間かかっちゃってー」
と相変わらずの自己中。

学生たちの進路に暗雲が立ち込めているのは言うまでもない。



【to be continued】
2016年11月5日 00:51

『赤城教頭の過失 <第1話>』



或る日の放課後、両袖のデスクに腰掛けた教頭の赤城春江が
スマートフォンを見つめて泣いていた。


時を遡ること六時間前、
昼休憩中の赤城教頭のもとに、高等部2年の沼すみれが訪ねてきた。
コピーではあるが、
秋の弁論大会の各クラス代表の原稿を全て回収してきたのだ。

赤城教頭は、下を向いたまま、
「はいはい、ご苦労さま。ありがとうございました。」と、
すみれに声をかけて、メガネをずらして上を向いた。

沼すみれは真面目な学生なのだが、何故か
頭がアフロヘアーになっていた。
彼女は、あちらこちらの時代を覗いては影響を受けて帰ってくるらしく、
今はどうやら70年代のディスコファッションに感化されているらしい。

赤城教頭は気持ちを鎮めるために小さく咳払いした後
「………その髪型、なかなかお似合いよ」と微苦笑を浮かべた。

教頭に褒められると、沼すみれは映画『サタデーナイトフィーバー』の主演、
ジョン・トラボルタがするのと同じポーズを決めた。
教頭は、その決めのポーズの右腕に
『風紀委員』の腕章を見咎めると思わず吹き出してしまった。
そして、ひとしきり笑うと、「どれどれ、弁論大会の書類は……。」と
弁論大会の原稿に目を落とした。

「ん?3年A組の磯野ウニ君は……『世界の薄毛事情』!?
 なんだろーねー、これは。
 あ?、あの子は10代だと云うのにおぐしが─。あらあら。悩んでいたのねぇ。
 哲道麗華さんは『牛回帰論』?? さっぱりわからないねぇ。
 枚方こしみ君は『ギリギリセーフのセクハラとは』?
 深海なまこ君は『よしえ、フルハムロードを行く』  よしえって誰なんだい??
 なんだか人選を誤っていないかいっ!?え?」
赤城教頭はうんざり顔で、原稿のタイトルに目を通していたが、
関心を引くものも幾つかあったらしい。

「んっ?『未だ増え続ける現代の奴隷たち』?御手洗ひふみさんですね。
 うーん、……重厚な内容だわぁ。
 しかも緻密な文章ですよ、これは!関心関心。
 沼さんは?これね?『世界から見た日本の教育と女性の社会的地位』?
 あらあら、これは、大学生レベルよ。
 あなたヘアスタイルもなかなかだけど、
 御手洗さんもだけれど、お二人の原稿は論文として出せるほどの内容よっ!」
沼すみれは教頭に褒められて、
またしてもフィーバーのポーズを決めた。

沼すみれは、2014年、中学の頃に、
北欧のと或る国からやってきた帰国子女だ。
その国では資源がないので、子供たちの教育こそが国の繁栄を左右する、
故に子供たちは両親の子供であることは勿論だが、
国家国民全員の子供でもあるという共通認識が根付いていて、
税金は高いが、教育費は一切かからない。
どんな貧しい家庭に生まれた者も高等教育を受けられる、
万全の態勢が整えられていた。

彼女は、そのような環境で育ったせいなのか、
以前から今暮らしているこの国の子供の教育や、
女性の社会的地位に就いて教頭に疑問を投げかけていた。

たしかに、沼すみれは、
あちらこちらの友人のところにタイムワープしているので、
常にファッションが時代錯誤した不思議な少女だが、
その明晰な頭脳と、冷静な正義感は、全教職員たちから一目置かれていた。
その教員たちの中でも特に一際、
沼すみれに目をかけていたのが赤城教頭その人だった。


「沼さんは、何故このテーマに決めたんですか?」
赤城教頭がメガネをずらして沼すみれに尋ねてみると、
こんな答えが返ってきた。
「とてもいやなニュースがスマホの中にあったんです。
 私が日本に来る前のニュースなのだけど、
 日本では何故母子家庭でこういう事件があると、
 お母さんだけが矢面に立って
 父親の存在は語られることがないのかなと思って………。」
そう言って赤城教頭にスマートフォンの中の凄惨なニュースを見せた。

ちなみに、
沼すみれから教えられたニュースは、こんな内容だった。
『母子家庭の若い母親が、
 新しい恋人が出来た日から自分の娘に虐待をしはじめて、
 最後には橋の上から女児を突き落とそうと企んだ。
 女児は最初は抵抗したものの、
 とうとう最後は、抵抗をやめ、
 バイバイの一言を残し、自ら飛び込んだ』というニュースだ。

その悲しいニュースは教頭の胸の中に、
外れぬ釣り針のように引っかかってしまった。

故に、放課後改めて独りそのニュースを見て、
教頭は涙を抑えられなかったのだった。


いつも威厳ある風体の教頭の異変に気づいた教員たちが、
何事かと恐る恐る近づいてくると、
教頭は気配に気づき慌ててハンカチを取り出した。

赤城教頭は本当は明治生まれだが、科学者の両親の計らいで、
大正時代、10代の頃に海辺之学園にタイムワープしてきた経歴の持ち主だ。
裕福な家庭に生まれたが、貧富の差による悲しい境遇の人々を
少なからず見てきた記憶は消えない。
犠牲者は必ずいつも、そして今も、弱い者達だ。

どう見ても、その筋の者にしか見えない広能文太教諭が、
「教頭、どうしたんですかいのう?」と声をかけると、
 教頭は「ちょいと聞いとくれよぉ、皆さん」
と若い教職員たちにスマートフォンの中のニュースの話しをした。

「一昨年のニュースだからさぁ、広脳先生、あたしゃ、タイムワープして、
 この母親に一言叱りに行きたいよっ!」教頭が発してはいけない言葉を吐くと、
全員が押し黙ってしまった。
海辺之学園の校則は、時間を行き来する自由は認めている。
しかし、歴史を変えることは学生達だけでなく教員も例外なく厳罰に処される。
解雇処分は免れない。
それどころか、元いた時代に返されてしまうこともありうる。

「教頭、それは、…………」若手の女教師麻宮が、
ちいさく、静かに、顔を左右にふった。

「麻宮先生、ええっ、わかっていますとも。
 私はそれを誰よりも、わかっています。」
そう言うと「このお話しは忘れてください。さぁ、皆さん帰りましょう」と、
笑顔を取り繕った。

赤城教頭には歳の離れた弟妹がいた。
しかし、家族全員が、頭脳明晰な春江に全てを託して、タイムワープするよう勧めた。
「おまえなら」、「あなたなら」、「お姉ちゃんなら」、
「きっと未来のお役に立つに違いない」そう後押ししてくれた。

学園を背にして歩きながら、赤城教頭は考えた。
(社会貢献とは、この学園の教員になる事だったのだろうか?
 時代はまるで、平等かのように見える。
 春江のいた時代よりも確かに人々は自由なのかもしれない。
 言いたいことが言えもするし、食べたいものが食べられもする。
 しかし、豊かさとは、今のこの時代の有様であろうか?)
頭の中で不毛な堂々巡りをした。
(本当に、小さな命の信号の明滅は、歴史の流れを変えてしまうのだろうか?)

すると、何を思い立ったのか、赤城教頭は踵を返して、足早に学園に戻って行った。

 ─ひと気のない職員室は窓から差し込む夕日でオレンジ色に染まっていた。
赤城教頭は真一文字に唇を結んだまま、引き出しからスタンガンを取り出した。

他所の町で校内に忍び込んだ不逞の輩が、
小学生を殺めるという不幸な事件が起きて数年後だった。
文部省から生徒たちを守るためという名目の下、
各学校に護身用のスタンガンが配布されることになったのだ。

「学び舎にこんなものがあるなんて、なんて時代なんだいっ!」
忌々しそうに呟くと、スタンガンをバッグに忍ばせて、
また正門に向かって行った。

正門前で守衛が教頭を見て「忘れ物はありましたか?」と、
人好きする笑顔を浮かべた。

教頭が「ええ」と愛想笑いを浮かべて
バッグから出したスタンガンを守衛の腹部にあてると、
たちまち守衛の身体が、くの字に折れ曲がって校庭に倒れた。

「守衛さん、ごめんなさいね」
気を失った守衛に詫びると、赤城教頭は守衛室に入り、
時間移動装置の操作パネルに向かい『移動目的年月日』を入力した。

『2014・12・24・09:00』

すると、守衛室の天井の赤色灯が回転して警告音が鳴り響いた。

確かに海辺之学園には時間を自由に行き来する装置がある。
しかし、時間を移動するには、底意センサーを通り過ぎなければならない。
例え無意識下であろうと、センサーは心の奥深くに時代を
変えようという気持ちがあれば、底意を発見し
移動の禁止を警告をするのだ。

「警告!警告!底意センサーガ時間移動ニ対シテ警告ヲ発シテイマス!
 スミヤカニ移動ヲ中止シテクダサイ!警告。警告。時間移動ハ中止シテクダサイ!」
無機質な機械の声がスピーカーから蹴り返された。

「知ったこっちゃないよぉ!」
かくして、赤城教頭が強制実行のボタンを押すと、
中世ヨーロッパの城にあるような巨大な門が音をたてて開いた。



<後編につづく>
2014年11月8日 15:32

『赤城教頭の過失 <第2話>』



赤城教頭が、海辺之学園の外に一歩踏み出して振り返ると、
既に門は閉ざされていた。

教頭の夏物のスーツに12月の凍てつくような風が容赦なく直撃した。
紛れもなく、それは2014年の冬の風だ。

「私としたことが!」と、
赤城教頭と同じような失敗をした者が過去にも沢山いたのだろうか、
都合の良いことに、海辺之学園の向かいにはファッションセンターシモムラと、
WNIQLO(ウニクロ)という、
大変リーズナブルな衣料品を扱う店が仲良く並んでいた。

「仕立ててほしいところだけれど、悠長なことは言っていられないねぇ」

教頭はシモムラの店内に入ると、店員に、
雪深いところに行くので防寒着をひと揃いお願いしますと告げた。
店員は余程手慣れているのか、あっという間に、
帽子・手袋・靴に至るまでジャストサイズで用意してくれた。
赤城教頭は店員の手際の良さにも、
それなりにコーディネートしてくれたセンスにも感心した。

フィッティングルームから出てきた教頭は、
「ご無理を聞いて頂き大変感謝しております。
 これから贔屓にさせてもらいますからね。
 急いでいるので、お釣りは募金箱にでも入れておいて下さい。
 それから、着ていたものですけどね、
 一日だけ預けておいて下さいませんか?」と、
丁重にお願いして外に飛び出した。

すっかり冬のいでたちになった教頭はタクシーで迷子町駅に着くと、
東京駅に向かい、そして東京駅から新幹線で一路N県のT市に向かった。

車窓の景色がだんだんと白くなってゆく。
外が雪に覆われるのと裏腹に、
赤城教頭の心の中に様々な色が
真水に垂らしたインクのように流れ込んで来て、濁らせてゆく。
全ての色が混じりあっていきつく先は黒色だ。混ぜ合わせてはいけない。
それを頭では理解出来ている。しかし、心がどうしても理解できなかった。

自分はとんでもないことをしでかしてしまった。
そして、これから更にとんでもないことをしでかすだろう。
罰せられることは明白だ。
勿論、元の時代に強制送還されることだろう。
自分の時間移動入学の門出を祝ってくれた家族は、
さぞかしガッカリすることだろう。

車窓を眺める教頭の脳裡に数々の複雑な思いが絡みついてきた。
明治生まれで、現代の女性よりも毅然としたところがあるのは確かだ。
だが、さすがの赤城教頭も苦悩した。
やがて後悔と迷いを乗せて新幹線はT市の駅に到着した。

地方とは言えT市は人口十万近い都市だ。
雪に覆われた駅前のロータリーは白一色におおわれてはいたが、
あちらこちらにクリスマスの飾り付けが華やかだ。

駅前のビル群を見た赤城教頭は自分の時代のN県の記憶と、
あまりにもかけ離れていることに一瞬呆気にとられたが、
すぐに我に還ると「近代化に驚いてる場合じゃないよぉ!」と、
独り言をつぶやくきタクシーに向かって手を挙げた。

「雫川の見返り橋までお願いします」

後部座席から声を掛けると、
レイバンのサングラスを掛けた四十前後の運転手は
「見返り橋ですか?でも、なぁんにもない所ですよ。」と振り向いた。
教頭は返答に窮して
「ええっ。ちょっとした思い出がある場所でしてねぇ」と、
適当な嘘をついた。

タクシーがゆっくりと走り出す。
曇った窓を掌で拭くと、おそらくメインストリートなのだろう。
商店街の電飾はクリスマスを精一杯に主張していた。
ガラス窓越しですら様々なクリスマスソングが聴こえてくる。

明治生まれの赤城教頭だが、実はクリスマスは明治時代、
銀座の明治屋から始まっている。
勿論、その頃から現代に至るまで、日本におけるクリスマスというものが、
宗教とは無縁にサンタクロースがプレゼントを抱えてやってくるという側面ばかり
商魂逞しいビジネスに利用されているのも変わらない。

赤城教頭は、初めてクリスマスを見た日を忘れられない。賑やかになればなるほど、
なんて淋しい催しなんだろう、そんな印象を抱いていた。

彼女が、まだ女子校にいた頃だった。
両親がその銀座の明治屋で舶来もののオルゴールを買ってくれた帰り道、
路上で幼子を挟んで夫婦喧嘩をしている夫婦を見た。
両親と子供の身なりから察するに、精一杯のよそ行きの恰好なのだろうが、
あまり豊かではない生活であろう事は容易に想像できた。

何が原因かわからないが、口論の末父親が妻に手を挙げた。
子供は更に激しく泣き声を上げるが、二人は子供を、
その場に置き去りにして右と左に別れて行こうとした。

「待って下さい!坊やがかわいそうじゃないですかっ!」
正義感に満ちた女学生だった赤城教頭の口から、
思うよりも早く言葉が出てしまった。
「子供の為に我慢したっていいじゃないですかっ!」
赤城教頭のこの暴挙とも言える行動に、
彼女の両親も弟妹たちも一瞬唖然としたが、
家族顔を見合わせ目配せの後、柔和な笑みを浮かべ静かに頷きあった。

「子供を泣かせちゃダメです!」
夫婦は見も知らぬ女学生を振り返り、淋しい苦笑を浮かべた。
赤城教頭は腰を低く落として、泣いている男の子の頭を撫でて、
「お名前は?……うん。よしおくん?
 じゃぁ、よしおくん、ケンカしないでってお願いしよー!」と言うと、
子供は健気に「仲直りしてください」と両親に頭を下げた。

父親は淋しく苦笑し、母親は子供を抱きしめた。
赤城教頭の父親が、悟られぬように赤城教頭の背後で背中を向けて
万年筆で手帳に何か書くと、その頁を破いて振り返り、抱きしめられながらも
こちらをじっと見ている子供に近づき静かに語りかけた。
「よしおちゃん、さっき、あそこの角の所にサンタクロースがいてね、
 慌てていて渡しそびれてしまったから、お願いしますと頼まれてね。
 はい、これ。サンタが詫びていたよ。」と笑いかけ、
教頭のものだった筈の赤いリボンに包まれたオルゴールに
小さなメモを添えて差し出した。
そこには『メリークリスマス よしおちゃん』としたためられていた。

両親は、子供がそのプレゼントを受け取らぬよう制したが、
春江の父親は「お父さん、お母さん、これはサンタからですから」と言って、
じっと相手の顔を見つめた。

夫婦は何を堪えていたのだろう、涙が表面張力のように膨らんでいたが、
やがてそれは決壊してとめどなく頬に流れた。

「どこのどなたか存じませんが、ありがとうございます。
 本当にありがとうございます。」父親が深々と頭を下げると、
母親も子供を抱きしめたまま頭を下げた。

しかし、二日後の新聞に
『鎌倉で、親子三人の無理心中』の記事が紙面に大きく取り上げられていた。

現代は野蛮な時代だ。
理不尽な理由なき殺人も子供の自殺すらも日常的になりすぎて、
大きな記事としては取り扱われない。
しかし、赤城教頭の育った時代、
一家心中は大きな事件として取り上げられた。

新聞記事に依ると、事業に失敗して、世をはかなんだ夫婦は、
睡眠薬を大量に飲み、
意識が途絶える直前に、子供の首に手をかけ、その後、
砂浜に三人分の履き物とオルゴールを遺して、
入水したらしいことが記事になっていた。

そして、その翌年、春江を敬い慕ってくれた1番下の妹が、結核により、
わずか7歳でこの世を去っていった………。


「お客さん?どうやら事故があったみたいで……。」
運転手に声をかけられ我に還った赤城教頭が前を見ると、
クルマが数珠繋ぎに停車したままだった。
「雪に慣れていない人がいらっしゃるもんでねぇ」
腕時計を見ると、なんとも微妙な時間
だ。
「お客さん?お時間は大丈夫ですか?」
「3時までには着きたいんですよ。着きますかねぇ?」
「仲間に聞いてみましょう」

運転手は無線で渋滞の理由を尋ねると
「やはり事故みたいですけれどね、もうレッカー移動されたようですから、
 決して余裕というわけではないでしょうけれど、
 なんとか着くでしょう。」

しかし、事故検分に時間を取られたのか、
タクシーが見返り橋に着いたのはギリギリの時間だった。
橋に近づくと、無人の軽自動車が1台停車していた。そして、
更に近づくと、幼子を橋の欄干の向こうに立たせている
若い母親の姿が見えた。
運転手は「あの親子なにしてるんですかねぇ?」と言うと、
サングラスを外してフロントウィンドゥに顔を近づけた。

「運転手さん、このまま待っていてくださいよ!」
タクシーを降りて赤城教頭は走った。

「待ってー!待ってくださいよっ!早まっちゃいけませんよっ!」



【後編につづく】
2016年11月19日 09:41

『赤城教頭の過失 <第3話>』



「待って!待ってくださいよっ!早まっちゃいけませんよっ!」

橋の外側と内側と向かいあって欄干に手を掛けていた親子は、
突然現れた赤城教頭を呆然として見つめていた。

「あなたの事情は全て知ってますからっ!助けてくれる人もいるからっ!
 お願いですから早まったことをしないで!
 お嬢ちゃんと一緒にどこかで温かいものでも食べながらさ、
 話しを聞くから、ね?」言葉の終わりに子供の方に笑顔を向けた。

しかし、極限の精神状態であった若い母親は
物凄い形相で悪態をついた。
「あんた、誰よっ!?役所の人っ?いいんだよー!ほっといてよ!
 私、鬼だから。ダメ人間だからいいのよ。こんな母親で、この子は病弱でさ、
 生きてても仕方ないのよ!
 疲れた!疲れた!疲れた!疲れた!疲れたんだよぉっ!」
まるで人間の表情ではなかった。
追い詰められた獣の顔だ。勿論それが彼女の本質ではない。
だが、今まさに我が子に手をかけようとしているところを目撃され、
錯乱して精神蒙昧状態なのかもしれない。

赤城教頭は、なるべく穏やかに一節づつ区切るように説得を試みた。
「あなただげが悪いんじゃありませんよっ。
 だってあなた、お嬢ちゃんが生まれた時、
 たいそう喜んだそうじゃないですかっ?旦那さんが働かなくても、
 独りで面倒みていたんじゃないっ?」

「うるさい!うるさい!うるせぇっ!わたしは薄情なんだよぉ!
 男ができたの!男さへいればいいんだよっ!ハハハハハハ」
母親の錯乱はとどまらず何かに取り憑かれたような目つきだった。

だが、赤城教頭は諦めなかった。
「自分の心に耳を澄ましてごらんよぉ。その子、
 千秋ちゃんって言うんだよね?、あなたに似てて可愛いじゃない!?
 あなたは薄情者なんかじゃないのよっ。自分の愛情の深さが苦しかったのよ!
 あなたが生まれつき薄情ならとっくにその子はいなかったでしょ!」

まさに魂と魂のぶつかりあいだった。
いつの間にか、車中から事の成り行きを見ていたタクシーの運転手も
クルマを降りてきて3人を見守っていた。

赤城教頭の言葉が心の何処かに響いたのか、
若い母親は意味不明な言葉を吐き捨てた後、
絶叫して泣きじゃくり、その場にしゃがみこんでしまった。
ようやく事は落ち着いたかに見えたその時だ。


女児は「ママを泣かすな!」と赤城教頭を睨みつけた後、
「ママ、バイバイ」と笑顔を見せたまま橋の欄干から手を離し、
後ろ向きに落ちて行った。
現実には一、二秒の転落が、赤城教頭の目には、
まるでスローモーションのように見えた。

川面から水の音がしたと同時に、
まるで条件反射のように赤城教頭は欄干を乗り越えると、
真冬の川に飛び込んだ。
高落差四メートル、雫川の水温は激痛に襲われるほどの冷たさだ。
着膨れした衣服は水を含んで、 五十代でしかも女である赤城教頭の体力を奪っていった。

ところが、女児の頭は流れの一番早いところを
とてつもない速度で流されていく。
追いつくはずもない。心臓は早鐘を打ち、
意識が薄らいでいった………。

それから二十分後、赤城教頭が目を覚ましたのは
タクシーの後部座席だった。
カラダには毛布がかけられていた。
「先生よぉ?目覚めたかい?」
「運転手さん?」
まるで亜熱帯地方のようにエアコンディショナーが暑い。
しかし、クルマの外からはクリスマスソングが聴こえている。
どうやら来た時の商店街を走っているようだ。

「まったく、無茶するよなぁ。子供が落ちた後、
すぐに110番通報しておいたよ。俺も川岸から走って追いかけたけれど、
申し訳ないっ。………間に合わなかったよ。ところで、
先生よぉ?まさか俺をお忘れじゃないでしょうねぇ?」
運転手がサングラスを外してルームミラーから教頭を見た。

助手席のダッシュボードの上に貼り付けられたカードに、
運転手の顔写真と虎田ジョンという名前が見えた。

「あー、あなた!虎田くんね!?平成六年卒業の!?」

赤城教頭が理想に燃える新任教師だった頃、
初めての中等部の担任を任されたクラスの生徒が虎田であった。

虎田はその頃十五歳、手のつけられない不良ではあったが、
何故か学生たちからは「トラさん」と呼ばれ人気者だった。
思春期の真ん中にいた虎田は反抗の態度を取りながらも、
心中密かに若かりし日の赤城に恋していた。

「あなたは後に警察学校に行って、本庁に行かれたと  噂に聞いていたけれど……。」

「懲戒免職になっちまったよ。学校なら退学ってところだな。」
少年時代と同じギラつく笑顔を見せた。

虎田は、本庁にいた頃、巨大な人身売買組織を一網打尽にするべく、
捜査チームの陣頭指揮をとっていた。
しかし、影の黒幕は巧妙に法の網の目を掻い潜り、
どうしても逮捕には至らなかった。
摘発できたのは所謂トカゲの尻尾に当たる連中だけだった。

東南アジアから甘言に騙されて連れてこられた女達が
どれだけ過酷な労働を強いられ、最後は臓器売買され、
何人が殺されたことだろう、
とうとう虎田は、業を煮やして、
表向きは実業家気取りの黒幕の会社に単身乗り込み、
組織の黒幕を射殺してしまった。

虎田はすぐさま殺人を犯したと自首をしたが、
誤射だったと報道されていた。
虎田本人の意思は黙殺され、
身内の不祥事は隠蔽されてしまったのだ。

しかし、虎田はなにも赤城教頭にそのことは言い訳せず、
ただ「でも、先生よぉ、俺はなんにも後悔してないぜ。ホントだぜ」とだけ
添えた。

赤城教頭は「先生はいつだってあなたを信じてますとも」と目を細めた。
虎田は少し面映ゆいような気持ちになった。
そういう時の彼は、必ずわざとぶっきらぼうを装うのだ。

「先生よぉ、駅の手洗いでそれに着替えてくれよ。」

脇を見ると座席にWNIQLO(ウニクロ)の大きな紙袋があった。
「ウニクロって知ってたかい?、浪打ウニが社長なんだってさ。
 憶えてるかい若ハゲのウニ?」

虎田に言われて赤城教頭は涙をぬぐい「あのウニ君が?みんな立派になったのねぇ」
しみじみとした表情で溜息をついた。

「ところでさ、先生はタイムワープして来たんだろ?
 気を失ってる間に海辺之(学園)に電話したらあんたが出たぜ。
 同じ時間に先生がN県と黄昏市にいるってことは、
 あんたはタイムワープしてるってことだよな。」

虎田は敢えてルームミラーを見ないまま真っ直ぐ前を向いて話していた。
そして、虎田の勘のとおり赤城教頭は声を出さずに泣いていた。

「先生よぉ、何があったのかわからねぇけどさ、
 あんた、つくづくほんとに変わらねぇな。相変わらず熱いよなぁ。
 俺はさ、先生と出会えたのは俺の財産だとずっと思っていたよ。」

虎田の言葉を聞きながらも赤城教頭の涙は止まらなかった。
やがてタクシーはT駅に着いた。
後部座席のドアを開けると虎田は「また会おうぜ、先生」と言った。
しかし、これが永遠のお別れになるだろう。
二人は互いの拳をこつりとぶつけた後、長い時間強く握手をして別れた。

所は変わり、見返り橋はおびただしい数の機動隊員と、
警察官が女児の行方を追っていた。

灰色の覆面パトカーの後部座席で、
容疑者の鈴木茜は身体を震わせて泣くばかりで言葉も要領を得ない。
鈴木茜の両脇に二人、運転席に一人、
刑事が沈痛な面持ちで女児発見の知らせを待っていたが、
「所轄各PCPSへ。16時41分女児発見なるも心肺停止。」
無線機の無情な声が車内に響くと、鈴木茜は号泣した。

そして、急に我に還ると、泣きながら運転席のシートを掴んで
「どうしよう?ねぇ!もう一人いるんですっ!
 知らないおばさんが川に飛び込んだんです!」と叫んだ。
「なにっ?」
同時に三人の刑事が眼を剥いた。

しかし、謎の中年女性の行方は不明のまま日々は過ぎ、
やがて捜索は打ち切りとなった。

女児が自ら川に飛び込んだとしても、
女児の遺体には無数の虐待に依る傷や痣が見られた。
容疑者鈴木茜は素直に全て過去をあらいざらい話し、容疑を認め、
死刑にすることを自ら望んだ。それ故に、
供述調書を仕上げるのにさほど時間を要さなかった。
その殆どは、見返り橋に落ちていた論文らしき原稿の
おかげと言ってもよいだろう。

捜査員たちは皆首をひねった。
何故なら、その論文の中には今回の事件のあらましが
全て事細かに書いてあったからだ。
この既知の事実を書いたかのような論文を
書き上げたと見られる日付は2016年11月20日であった。
まるで、2016年の人間が、2014年を振り返って書いた文章だ。

論文めいた二つの原稿を執筆したのは、沼すみれと御手洗一二三という人物だ。
捜査員たちは、その二人のうちのいずれかが、
雫川で女児を救いに川に飛び込んだ中年女性ではないかと推理したものの、
何故、原稿を書き上げたのが未来の日付なのか?
謎はいっこうに解けず、いつしかその論文は、触れてはいけないファイル、
そう、Xファイルと呼ばれるようになって闇に葬られてしまった。

幸か不幸か、そのファイルに目を止めたのがN県警の匿名係の二人であった。

その二人の刑事は、どんな些細な事件も、
オカルトや宇宙人の仕業に仕立てあげようとするので、
N県警の恥、実名を出せない警察官故に匿名係と名付けられ、
二人定年まで窓際部署という憂いき目に遭っていた。

三平米に満たない小さな部屋で、
ニューヨーカースタイルのダークスーツに身を固めた二人が、
そのファイルを見つめていた。

「モルダー?この論文を書いたのは、もしかしたら
 未来から来た宇宙人じゃないかしら?」
クールビューティーな北陸美人スカリーこと須賀川理恵が、
コーヒーカップを手にしたまま眉根に皺を寄せて呟くと、
通称モルダーこと盛田篤は、デスクの上に脚を乗せたまま、
「スカリー?ボクはブードゥー教の呪文で蘇った
 ゾンビの仕業だと思うんだよ」
と荒唐無稽な妄想を真面目に語り始めた。
二人の妄想は止めどなく溢れたが当然ながら全て推論にしかならならず、
やがて話し疲れて沈黙した。
ブラインド越しに窓の外を眺めていたスカリーが
何か閃いたらしく振り返って口を開いた。
「モルダー?あのファイルをネット上に流したらどうかしら?」
「スカリー、それは名案だよ!」
 
かくして二人は、縦社会の組織のルールを一切無視して、
『この論文の執筆者を探しています』と闇に埋もれる筈だった論文を
警視庁のホームページ上に発表してしまった。

すぐさまメディアは『未だ増え続ける現代の奴隷たち』と
『世界から見た日本の教育と女性の社会的地位』という二つの論文を取り上げた。
すると、その論文は言語を変へ、あらゆる国のニュースとなった。

その時点では、後にその原稿が
世界の歴史を変えてしまうとは誰も思いもよらなかった。



2016年11月21日 23:53

『ヴィンテージギター1972』



Aさんは63歳。有名私大を卒業したが転落の人生を辿った。
仲間達は皆経営者か会社の重役なのに、小さな酒場の雇われ店主をしている。

それにしても、男友達というのはいいもので、
本人は身を落としたつもりでも、彼の古い友人たちは彼を慕ってやってくる

そのAさん、この一年、休みになる度に、
隣町から迷子町のサンセット通り商店街の中古楽器屋を訪ねてきていた。
何故かというと、彼が19歳の時に買って、26歳の時に質屋で流してしまった
ギルドD50というギターが飾られているのを見に行くためだ。
自分が買ったのと同じ1972年製のギルドD50。
当たり外れの多い楽器で、良い状態で残っているのは稀だ。

あまりによく訪ねて来るので、店員もAさんの顔を憶えてしまった。
「弾いてみませんか?」
声をかけられると、彼は少女のようにはにかんで、 とんでもない!と顔の前で掌を振った。

ギルドD50。

Aさんにとって因縁のギターだ。
26歳で質流れして、2度買った。だがハズレだった。
1本は質草になって酒代で消えた。
もう1本は後輩の津島に借金のかたで売ってしまった。

貧乏のドン底に陥った時に、
眠っている妻の顔を見て(もうギターは要らない)と思った。
そんな時に、彼の二つ上の先輩からギターが届いた。


手紙が添えてあり、こう書いてあった。
『つまらないことで仲違いをしたな。
 おまへが俺に謝りたいと未だに悔やんでいると伊藤から聞いた。
 俺からのせめてもの罪滅しに受け取ってくれ。
 俺がハリウッドで買ったギルドD55だ。
 但しアジャスタブルロッドが折れている。
 リペアルームに行けば3万程で直るはずだ。
 直したら、もう1度ライヴをやろうぜ?』
Aさんは、号泣しながらギターを抱いた。

しかし、それで済めば美談で終わるはずなのに、
原宿のリペアルームにギターを抱えて訪ねて行くと、
修理代が23万だと告げられた。

しかも、直してもネックが反り始めた頃に戻るだけで無駄だと言われた。
工房にいたもう1人の若者は、友情のために治すべきだと言い、
もう1人はやめた方がよいと言った。

途方に暮れたAさんは、ギターの中でも最も重い
ギルドの木製のケースをぶら下げて御茶ノ水に向った。
すると、なんということだろう。
運命的にも先輩から戴いたのと同じ年の、
同じギターが飾られているではないか。
Aさんはそのギターを衝動買いして1ヶ月後、
先輩にギターが直りましたと嘘をついた。

そこで終われば美談で済んだ。でも、
やっぱり気に食わなかった。
Aさんにとっては音がハズレだった。
またしても、売り払って、そのお金は酒代に消えた。
そして10年近い時が流れて、もう音楽に興味がなくなった頃に、
サンセット通り商店街の楽器屋で出会ったのが、
経年劣化の見えない、自分が大切にしてきたギターと
瓜二つのギルドだった。

暇な時に見に行き、そしてそれで、もう満足だった。

・・・・・5台のギルドが俺の目の前から消えた。縁がないんだ。
自分にそう言い聞かせた。

或る日、Aさんがいつものように自分のお店のパソコンから
中古楽器屋のホームページを見ると、件のギルドは商談中になっていた。

そして、何日かして、大学時代の後輩、おひょいから電話が来た。
おひょいとは、この物語の舞台、海辺之学園の校長のあの藤村瞬時だ。
学内でも陰でおひょいと呼ばれているが、昔から、
なんとも飄々とした人柄で、
やっぱり『おひょい』と呼ばれていたらしい。

「先輩、あのギルド、どうしました?」
「あぁ、あれか?あれなら商談中になっていたよ」
「実は、その商談相手、私なんですよ。それで、日曜日お会いできませんか?」
「え?何言ってるんだ!?」
「ま、いいから。とにかく来てください」
「何言ってるんだよぉ!?」
「とにかく来てくださいよっ」

(女房は楽器に詳しい。
 しかも、収入はすべて女房任せだ。
 もう手に入るわけがないのに)

サンセット通り商店街に行くと、
どこか英国紳士のような風体の後輩が柔和な笑顔で待っていた。
アロハにつっかけのAさんは、苦笑いした。
「それにしても、おまへ立派な紳士になったなー」
「何言ってるんですか!中身はあの『おひょい』です。変わりませんよ」
後輩は苦笑いしていた。

「ところで、先輩?店閉めた後、
 あちこちで飲んだくれてませんか?
 あのですね?酒に溺れず又ライヴに出ると約束してくださるのなら
 私が代理で買おうという御提案をしたくて参りました。ただし、
 月に1万返してください。酒代を私に下さい。どうでしょうか?」
Aさんは困惑した。
「俺が今更……」
「先輩。先輩は変われますよ」
藤村がAさんの目をじっと見つめた。
Aさんはしばらく俯いて悩んだ後、鼻から息を吐いて、覚悟を決めた。
一瞬まぶたを閉じて開くと目が輝いていた。

「おまえがそれでいいと言うなら、甘えてもいいか?」

購入が決まると、顔なじみの店員が
「やっと弾けますね。今朝かなり良い弦を張ってチューニングしときましたからね。」
と笑みを浮かべた。
Aさんは丸椅子に腰掛けたまま店員から渡されたギターを
まるで生まれたての赤子のように抱きとめた。
軽く音を鳴らすと、ピアノの単音のような独特な重い音が響いた。
すると、他の客たちも、見るともなしに彼の周りに寄ってきた。

「……まるで、これは俺のだ」

Aさんは藤村の顔を見上げた。
そして、一度カラダからギターを離して、しみじみと見つめ、溜め息をついた。

「それにしても背中のこの傷、
 川俣が勝手にケースから出してベルトのバックルで傷つけたのと同じだよ。
 この持ち主も川俣みたいな奴にバックルで傷つけられたんだな」
ギターの背中の傷に指をなぞらせた。
そのキズさへ何故だろう愛着を感じた。

「そうだ!藤村ぁ!おまえ憶えてるか?この大きなピック!
 最初のギルドの保証書と記念にもらった
 でかいピックを持ってきたんだよ!いつも眺めてたんだ。
 どうだ!女々しいだろう!?」

Aさんはよほど照れくさいのを我慢していたのか、わざと豪快に笑った。

藤村が、保証書を手に取り、しゃがむとサウンドホールの中を見つめて声を張り上げた。

「先輩!先輩!これ!」

「え?なになに?・・・・まさか?」

Aさんは膝の上でギターをひっくり返し、19歳の時に買ったギターの保証書と、
サウンドホールの中の製造番号を見比べると、やはり絶句した。

「おい?これ!俺のだよっ!俺が質屋で流したギターだよ!」

店員が目を丸くしてポカンと口を開けた。

他の店員たちもやってきて、無関係な客たちも近づいてきて、
Aさんは恥も外聞もなく、ことの次第をみんなに説明した。

初対面の赤の他人に自分の過失の数々を語ったのは、
後輩の素晴らしさとの対比効果を狙ったのだろうか。
藤村は顔を赤らめて俯いた。

「ブ……ブラボー…ブラボー」

間近に突っ立っていたオタクふうの大学生が小声で言うと、
小さな拍手が起こり、やがて盛大な拍手に変わり、
何事かとエレクトリックのフロアからも人が来て、
客同士が伝言して、お店全体に
スタンディングオベーションが広がった。


。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜


Aさんはそれ以降お酒の量が減って、都内某所でライヴを再開した。
63歳にして、若者と混じってライヴをしている。


Aさんは、友情の力によって、
2016年から1972年にタイムワープできたのだ。

そして、Aさんのライブ活動が再開されて間もなく、
生徒たちが下校して誰もいなくなった海辺之学園の建物から
ベースの音が聴こえるようになった。

音の主は、校長の藤村瞬時だ。
彼も先輩とセッションする日を夢見て
ベースギターの練習を始めたのだ。


青春は終わらない。



おわり
2016年10月29日 22:38

小保方シリーズ1『栄養士とお子様ランチ』



学園の嘱託職員で、管理栄養士の、小保方史恵は、
高等部の2学期の昼食メニューについて頭を悩ませていた。
生徒たちの野菜嫌いも深刻化していて、
バランスのとれた栄養の提案がタ○タ食堂のアレのような具合に、
どうにもうまくいかなかった。
流行を取り入れれば食いつくであろうと編み出した、
『ひと味ちがうばーにゃかうだ』として、
きゅうり、にんじん、セロリ、大根、
茹でたアスパラガスなどスティック状に切ったものに、
アンチョビの代わりにレバーペースト、
パクチーのみじん切りを加えたソースが敬遠されて、
「嫌いなものに嫌いなソースを合せちゃアカンやろ!」と、
試食会は惨憺さんたんたるものだった。
  
ある日の放課後、調理室の廊下に一枚の紙片が落ちていて、
それを拾うと「1976」の数字が書かれていた。
ふつうならそのままゴミ箱にポイッなのだが、
下駄箱の靴を履き替えながら、いっこうにメニューが決まらない
焦りや、軽いストレスも感じて、冗談半分、いたずら半分に、
その紙片を事務室の前に置いてあった百葉箱みたいな
変なポストに投函してみようと思ってしまった。
それから、校門を出ると、目の前を、小学生くらいの男の子が走った。
「…りゅうのすけ?」
彼は、小保方の弟の龍之介に雰囲気が似て、
その彼を呼び止めようとその背中を追った。
彼は今どきには珍しく、女の子が穿きそうなショートパンツを履き、
トップスはラガーマン風なポロシャツ、白いハイソックスを履いていた。
ショートパンツの後ろポケットには、
これまた珍しく、炭酸系飲料のブランドのロゴの入った
アクリル製のヨーヨーが入り切らず、パンパンにその丸い形を浮かばせ、
タコ糸のような紐がプラ〜ンとポケット口からだらしなく垂れ下がってる。
  
「よぉ!りゅうの介!」
と声をかけたのは、右隣3件目に住んでいた、山川さんちのみっちゃんで、
龍之介の幼なじみだ。
「あとでタイヤ公園で野球やるけど、くるだろ?」
龍之介とみっちゃんは同い年だが、
ほんの少しみっちゃんのほうが背も高くて、ガタイもいい。
「用が済んだらいくよ!」と、龍之介はそっけない。
私でも何年ぶりかに見るみっちゃんだ。弟だって感動の再会だろう。
しかし、まるで昨日も会っていたような軽いノリ。
正直、その再会はないでしょっと思ったのだけど、なんだろう、
なんか微妙に様子がおかしいことに気がつく。
明らかに、弟もみっちゃんも幼すぎるのだ。でも、目の前にいる子は
紛れもなく、弟の龍之介。走り去っていたのは、紛れもなくみっちゃんだった。
その違和感に憮然する間もなく、正面から中学生の私が龍之介を出迎えた。
「おかえり〜!」と。甲高い声、なんら特徴もなく、
芋っぽい雰囲気を醸し出してるあの子は、
紛れもなく明らかに中学生の頃の私。おかしい。
じゃあ私は誰?またまた困惑する自分に浸る余裕もなく、
龍之介は「ごめんっねーちゃん、また行ってくる!」と、
中学生の私の前を通りすぎてゆく。
「もう〜!夕飯までには帰ってくるのよ?
おばあちゃんのお小遣い、大事に使いなさいよっ」と、
中学生の私が龍之介の背中に声をかけた。

私は尚も、龍之介の後を追った。
なんだろう、こんな不思議な白昼夢。
その理由を探るためにも、なぜだか、
なんだか彼を追わなくてはいけないような気がした。
それから、しばらく歩道を、彼に気づかれないように小走りに追跡。
そのうちに平屋の駅舎が見えてきた。
そこで彼は小の字の入った硬券切符を
改札で駅員に鋏をカチンって入れてもらった。
私は定期入れごとICカードを改札にかざしてみたが、いきなり笛を吹かれ
まもなく、駅員に呼び止められ、彼の後ろ姿を逃さぬように見張りながら、
でも、なんだか硬い紙の入場券を買わされ、ホームに入場した。
ちょっとやりきれなかったが、貨物列車をやり過ごしている彼を見失うことはなく、
しばらくしてホームに入ってきた黄色い電車の同じ車両に、一緒に乗り込むことが出来た。
龍之介は戸袋の窓辺に立ち、それから次の駅で黄緑色の電車に乗り換えた。
そして、彼は有楽町駅で降りると、数寄屋橋の方に向かって歩き出した。
  
  
数寄屋橋の交差点で、なにやら厳つい、軍服のような出で立ちの、
得体のしれないお爺さんがマイクを片手に熱弁を振るっている。
「あんたたち、国民は大バカだ!ボヤボヤしてると!ソ連が攻めてくんだよ!
 北海道がとられっちまうんだよ!いいか!
 日本はソ連と戦争をやったんぢゃない!
 ヤツらのやったことは終戦間際に北方領土をぶんどった国ぐるみの
 火事場泥棒だ。わかるか!」と強い口調でまくしたててる。
でも誰一人、このお爺ちゃんの話に耳を貸す人はなく、
足早に前を通り過ぎて行くのだが、
龍之介だけは、いっちょまえに腕組なんかして、
ウンウン頷きながら、お爺ちゃんの話に聞き入ってる。
しばらくすると、お爺ちゃんは演説をやめ、
その熱心な?小さなオーディエンスの前に歩み寄った。
「ボク、今の話、わかったかい?」彼は、尋ねられると、
ただ首を傾げて、しばらくして彼は顔を横に振った。
お爺さんは「いいよ。いいんだ。君、日本をよろしく頼むぞ!」と
肩をポンっと軽く叩き、彼の手のひらにキャンロップの飴玉を2つ手渡した。
お爺さんの演説中、傍でずっと立っていた、
やっぱり軍服風の黒ずくめの、別の厳つい人が歩み寄ってきて、
「ええもんもろたな。総裁からもらった名誉だぞ」と、龍之介をからかった。
  
彼は、丁寧にお爺ちゃんたちにお辞儀をし、それからすぐに振り返り、
小走りで交差点を渡り、斜向かいの不二家の入り口に立ち止まった。
そして、ショートパンツの前のポケットから小銭入れを取り出し、
不二家レストランの食品サンプルを見ながら、小銭を数えた。
しかし、お金が足りなかったらしく、彼は肩を落としながら、来た道を戻り始めた。
私はそこで彼を呼び止め、レストランで奢ってあげようと思ったが、
さっき、私は入場券だけで有楽町に来てしまい、
また、改札出口でまた呼び止められしまった。
仕方なく差額を紙幣でお支払いをしようとしたが、
「これどこの国の紙幣?」とまた一悶着。周りにいた乗客なども巻き込んで
聖徳太子や伊藤博文、野口英世に騒動を任せ、どさくさに紛れて、
なんとか小銭だけで難を逃れた。
あの幼い弟に、不二家でごちそうしたい気持ちも募ったけど、
ここで彼に奢ると私も帰れなくなると思い諦めることにした。
龍之介は、また有楽町の駅のほうへとトボトボと歩き出した。
有楽町駅の前では、軍帽に白装束の傷痍軍人が2人立っている。
ひとりは両腕がなく、首から募金箱を下げていた。
隣のもうひとりは、左脚が膝から無く、
松葉杖をつきながら、ラッパを抱えていた。
募金箱を下げ、うつむき加減に立っているほうの前に龍之介は立ち、
やたら達筆で漢字ばかり書いてある募金箱をじっとみつめ、
それから、さっきもらったキャンロップをひとつ、募金箱の上にそっと乗せた。
彼は何もいわなかったが、ただそっと小さく軽く彼にお辞儀をした。
隣の軍人さんが、ラッパを鳴らして、龍之介に笑顔で手を振った。

それから、
彼はそのあと、駅のキオスクに入って、やきそばパンとフルーツ牛乳を購入し、
ホームのベンチに座って、それに齧りついていた。

帰路の電車の車内、彼はさっきと同じ、
戸袋際の窓辺に寄りかかるように立っている。
私は3人がけのシートに腰掛け、彼がどうして、
数寄屋橋の不二家に向かったのかを考えていた。
前に立っていたスーツ姿の紳士が、龍之介への視界を塞ぐ。
彼が広げたスポーツ新聞紙の日付が見えて、ふっと思いついた。
「そっか…」そういえば、今日は母の命日だった。
彼と母を結びつける思い出の中に、
不二家で食べたお子様ランチがふわっと浮かび上がった。
彼は、今日を”お母さんと思い出を尋ねる日”に宛てていたのだ。
まもなくして私鉄に乗り換えた。
少し蒸し暑い空気を、ただかき混ぜるだけの首振りの扇風機が
天井で周っている。、吊掛式のモーター音はただただ煩く、
オイルと鉄が焦げるような臭いを我慢しつつも、
ただじっと外を眺める龍之介を見ていた。
そして、彼は見覚えのある駅を降りると、
家とは反対方向の丘の上の小寺へと足を向かわせている。
母の墓前にしゃがみ、あのお爺さんから貰ったキャンロップひとつを
手向け、手を合わせていた。
私は、3つ隣のお墓の卒塔婆の影から、様子を伺っていると、
「龍之介!なにしてたの?ここにいたんだー」と、祖母と中学生の私が、
火を灯した提灯と、水桶、彼岸のお花とお線香を持って母の墓を尋ねた。
「今日は迎え盆だから。龍之介も迎えておやり。」と、
祖母から柄杓を受け取り、水を手向けた。

「龍之介。今夜はおばあちゃんがオムライス作ってくれるって。」と
中学生の私が弟に伝える。
祖母は「オムライスに旗じゃダメか?龍之介」といい、
龍之介は「子どもっぽいから旗はいらないよっ」と言った。
中学生の私が「じゃあ、おねえちゃんが旗つくってあげる。どこの国がいい?日本?」
龍之介は「じゃあ、ブラジル。」
私「難しいじゃん。ムリ。」
龍之介、「じゃぁ、スペイン。」
私、「も、ムリ。日本かフランスか、イタリアか、ドイツか、スイスにしなさいよ!」
龍之介、「いいよ日本で。」とにぎやかなやりとり。
私は目を細め、3人の背中を見送り、龍之介を初めて見かけたとこまで戻ると、
交番横の丸丸いポストがいつのまにか四角に、
お豆腐屋の前のコーラの赤い瓶の販売機は、
ペットボトルが並ぶキャッシュレスな販売機になり、
懐かしかった記憶の原風景は、
まるで夢から醒めるように
いつも目の当たりにしている風景に変わった。

私はその足でもう一度、学校に戻り調理室を尋ねた。
ニンジン、タマネギとケチャップで甘めのチキンライスを卵でとじて、
小さなハンバーグとナポリタン、夏野菜のサラダをトッピングして、
キャンロップを添えて、オムライスに旗を立て、
『小保方風夏のお子様ランチ』をメニューに加えようと思いつき、
手際よく調理を済ませると、配膳台に並べてスマホで撮った。
その画像を添え、いますっかり大人で2児の父親でもある弟にLINEを送った。

(史絵:)「お子様ランチ、食べに来る?」
    「うまそうだね!娘たちに持ってきてくれ」(龍之介:)<既読>



おわり
2015年8月14日 11:01:59

小保方シリーズ2『友情』



学園の嘱託職員で、管理栄養士の、小保方史恵には、
大学受験を控えた娘の里笑(りえ)がいる。
小保方が赴任している学園とは違う、
公立の高校の3年に在籍している。
今回は、その里笑と、里笑のご学友たちのお話。

Case-T 〜里笑の場合〜

「はい。終了〜。おつかれさま」
夏休みが始まった小学生たちが、校庭の奥の遊具で遊んでいて、
キャッキャッと騒がしい声が、いままでシーンとしていたこの教室まで響いてくる。
「とりあえず、疲れた…」そう、いま、この教室で、この夏最後の模試が終わった。
アブラゼミが煩い並木道、記録的に気温を更新している熱い熱い昼下がり。
木陰のわずかな涼を求めながら帰路につく。
「オボーっ」と、後ろから2人、同級生が駆け寄る。
「どーだった?あたしマジやばいんだけど。」
「メグったら、数Uヤバイとかゆって、国英重視の私立に絞るとかゆーんだよ。
 ここまで来ておいて。」「だって、指数関数だよ?もうムリ!」
「ところで、オボは第一志望どーするの?まだ決めてないの、
 オボだけだって。」ミユキが眉をひそめる。
「ううん、オボだけじゃないでしょ。松澤くんもじゃなかった?」「あっ…」
…メグとミユキ。気の置けない大切な友だちだけど、
いまは、こんな2人の賑やかな声さえ、少し騒がしい。
実際、私はもう少し受験に無頓着でいたかった。
華やかな高校生活を夢見ていたのに
その華やかさの経験も記憶もほとんどなく、
勉強に費やしてきてしまったことに
どうしようもない虚無感さえ感じている。
すると、斜め右をうわさの松澤くんが、
スタスタと早足で通りすぎてゆく。
私たち3人は、彼の背中をじっと見送った。
「彼もオボといっしょで、国立狙いなんでしょ?」
「らしいけどね。でも、松澤くんいっつも受験と関係ない本読んでない?」
「余裕あるんだ。いいよねぇ、できるやつは。」
「模試打ち上げで、あたしらミスド寄ってくけど、オボも来る?」
彼女たちの天真爛漫な誘いに甘んじちゃおうと思ったけど、
「ん…今日は、出来がいまいちだったし。帰って復習しとく。」っていって、
2つ目の交差点で、彼女たちとバイバイした。
まっすぐ続く国道沿い。陽炎が揺れているアスファルト。日陰がなく、
ジリジリに灼けたコンクリートの側道、
通りを行き交う車は総じて閉めきった窓、
きっと車内はエアコンが効いて過ごしやすそうとか考えると、
羨ましさを超えて恨めしい。
そこに、角の書店から出てきたのは松澤くん。彼は私に気付くこともなく、
スタスタと5〜6m先を歩いている。まもなくして、
彼は、『桐タンス直します。見積り無料』の看板が背板になってるベンチに腰掛け、
駅の西口行のバスを待っている。
私もそこに辿り着き、彼に「ね、一緒に座っていいかな?」と、
彼の肩越しに尋ねてみたりする。
彼は私の方を振り返り、銀縁のメガネのフレームを人差し指で軽くクィっと上げ、
「あぁ、小保方…。」そう一言呟いて、
座面に無造作に置かれた、さっき購入したであろう本の袋と
背負っていたナップザックをどかした。
私は「ありがとう。」と一言伝え、彼の横に腰掛けた。
「ねぇ、なんの本を買ったの?」なんて、さり気なく尋ねてみる。
特別、私は彼がどんな本を買ったのかなんて、丸っきし興味がない。
どうせ、”国公立難関私大攻略英文法”だの、
”今からでも間に合う、抑えておきたい100問”といった類のものだろうと
高を括っている。
しかし、残念ながら、彼との共通の話題は、”受験”しかない。
なにか話題を振らなければ、座が持たない。
すると、彼はおもむろに袋から本を取り出して、私に見せる。
「あぁ、これね。日本の伝統文様の事典なんだ。」
意外だ。同時に自分の発想の乏しさが恥ずかしい。
彼が手にした、その本の表紙を覗けば、なるほど、確かに
さっきの彼女たちが噂していたような無愛想な参考書の類ではなく、
高校生が読むのかしらと思うような、ちょっと小難しそうで、それでいて、
絵本のような趣きのある本に、私は思えた。
「…そう、それが青海波(せいがいは)、で、そっちは七宝(しっぽう)かな。」
私がなにげに開いた頁の見開き順に、彼は文様の名前を言い当てる。
「ほとんどの日本の古典的文様は、日本の意匠になってるんだ。」
彼はまたメガネのフレームをクィっとさせながら、誇らしげに語り始めた。
「詳しいんだ。こういうのが好きなの?」と、彼に問いかけた。
「好きっちゃ好きなんだけど。」と、一呼吸おいて 「オレね、欄間職人になりたいんだ。」
「なに?欄間職人って。」
「オレのじーちゃんさ、昔、大工の棟梁やってて。じーちゃん家にいくとさ、
 なんか大河ドラマのセットみたいな家でさ。
 便所なんかいまだにボッタンなんだけど、
 いろいろおもしれーの。小3くらいの時にさ。
 新聞に挟んであった広告紙とかで、飛行機折ってさ。
 それを部屋ん中で飛ばすんだけど、ある時、
 襖の上のなんか細かい彫刻がはまってるとこにささっちゃってさ。
 そのときじっと見上げて、その彫刻を見てたら、なんか気に入っちゃって。
 それが欄間だったんだけどさ。」と。
欄間とはもともと、日本家屋なんかの部屋と部屋の境目、
または部屋と廊下などの境目の襖や障子の戸の上側に、
採光や換気の空間に透かし彫りなどを施した板をはめ込んだものを欄間と呼ぶらしい。
洋風住宅ではほとんど見られないが、それでも、和室の床の間の上なんかに、
欄間を施すような趣が見られることもあるようだ。
それにしても、寡黙で面白みのない人だと思っていた松澤くんが
此れほどに饒舌に、しかも熱心に語ることもあるのだと、
彼の表情を横目で、しみじみ感慨に浸りながら眺めた。
「それで?この本と欄間ってなにか関係があるの?」と尋ねると、
彼パラパラと頁をめくる。
見開くと「これが麻の葉。籠目あたりとか欄間にもよく使われる文様なんだ。」と。
「本当はオレ、すぐにでもってゆーか、
 明日にでも、工芸家の門を叩いて修行にでたいくらいなんだけどさ。
 親父は頭固くてさ。大学出て一般の会社か、公務員になれって。
 でもさ、なんかちがうんだよな。だんだんそうじゃねぇって
 思ってくるとさ、受験に身が入らねぇってゆーかさ。」
「じゃあ、受験しないの?」
そして、その頃にはもう、2台のバスをやり過ごしてしまっている。
現実、じりじり灼かれて溶けそう。アイス食べたい。
「京都にさ、工芸大学っつーのがあって、そこ受けようと思ってる。
 小保方はどうすんの?。小保方のママって栄養士かなんかだっけ?そっち系目指すの?」
と、彼はいきなり私に話題を振ってきた。
これ見よがしに、スカートのポケットから、ハンカチを取り出してパタパタと仰ぎながら、
「私も決めあぐねててさ。ずっと小学校の先生志望で来てたけど、実際、
 私あんまり子どもって好きじゃない。これって致命的な気がしない?」と伝えた。
現実、いまいち受験に身が入らない理由の一つにもなっているかもしれない。
たぶん、私は、環境さえ整っていれば、どんなことでもきっと卒なくこなしていけるだろうし、
自信もある。しかし、”情熱はあるの?”と問われれば、私は首を縦に振りはしないだろう。
要領よく、なんでも上手にこなせる子故の贅沢な悩みなんだろうか。そこに、担任との面談で
志望大学をゴリ押しされるのは、ぶっちゃけ煩わしいものだ。
彼も、私のこんな気持ちを察したか知らずか、「うーん。まぁ、子ども嫌いが先生になるって、
 子どもにしてみればたぶん迷惑だろうな。」といった。
「かといって、じゃあ、他に何がやりたいって考えると、なにもないんだ…。」
そういって、グーッと両脚を伸ばす。
それにしても、暑い。アイス食べたいよ。松澤くん…。
「でもさ。」と、彼が切り出す。
「でも、小保方って、なんかさ、なんていうか、人に教えるの上手い気がする。
 痒いとこに手が届くっていうかさ。コツとかポイントを掴ませやすいの。
 そういうのってもともともってるセンスみたいなんじゃねーかな。
 そーゆとこ信じていいんじゃね?」
今日はいろいろと意外だ。松澤くん、そういうふうに私見ていたんだって。
「…そっかな。だったら、ママに感謝かな。」っていって、
ちょっぴり素直になって照れ笑いを浮かべてみせた。
それから、3台めのバスがやってきた。
やっと、私たちは重い腰を上げ、そのバスに一緒に乗り込んだ。
車内は空いていて、エアコンがとっても涼しい。
松澤くんや他に乗客が乗っていなかったら、
スカートの裾を振って、中まで仰ぎたくなるくらいだ。
私たちは2人並んで、一番後ろの席に座った。
「受験が終わってさ、京都に行くことが決まったらさ。
 バイクの免許取ろうかなって思うんだ。」と、彼は話し始めた。
ほんと、男の子は羨ましいよ。あれこれと、
興味の対象がそこらじゅうに転がっててさ。なんて思いながら、
「いーんじゃない。でもそんな詰め込んで忙しそうだね。」と答えた。
「あのさ、バイク取ったら、東京にいる間だけ後ろに乗ってくんない?」と、
彼は照れくさそうにゆった。
なにそれ?軽くナンパされてる?私。なんて思いつつ。
「いいよ。受験もバイクどっちもコケないくらい、ちゃんと頑張ったらね。」といった。
確かに、受験が終われば
いろんな思いや、悩みやしがらみから、いろいろ開放されて、
少しは心が軽くなるものなのだろうと思った。
その時、彼のバイクに乗せてもらっても、
それくらいはまいっかっていう気持ちにもなった。
彼は、私からの言葉が、オーケーをもらったように伝わったらしく、
言葉はなかったが、表情が嬉しそうだった。
なんだか、そんな彼の横顔を見て、いつも遠く感じていた松澤くんが、
なんだかちょっぴり近くに感じられた気がする。
バスがあと2駅で終点に差し掛かる頃、
「あっ!やべっ」と彼がいきなり降車ボタンを押す。
「どうしたの?」と聞けば、
「いや、さっきの(通り過ぎた)スーパーで、
 オレ、おふくろに”おでん種”買ってくるように頼まれてたんだっ」と。
「は?」
こんな、夏真っ盛りな季節に、コトコトおでん?
混乱して言葉をつまらせていたら、いつの間にか停留場に。
彼は、さっさとバスを降りてしまい、
「じゃーな!小保方ーっ」と手を振り、来た道を戻ってる。
私も終点でバスを降りて、駅まで歩きながら、
距離は縮んだけど、温度差は…と呟いて、それからやっぱり、
アイスを買って帰ることにした。



Case-U 〜松澤くんの場合〜

夏からカウントしても、もう数えられないくらいに図書館に通っている。
顔なじみの水色のエプロンの司書も最初は「熱心ね」と、
優しい笑顔で励ましてくれることもあったけど、
理工書書架に近い窓際の机が指定席になってからは、鬱陶しい表情まではないもの、
「また来てる…」みたいな雰囲気はなんとなく読み取っている。
とにかく、図書館の常連になるというのはあまり居心地のいいことではないらしい。
しかし、そんなことも言ってられないほどに、熱心にならざるを得ないのが、
受験まで3ヶ月を切ったこの身の置き所だ。もちろん、受験科目は抑えているし、
進路指導主事のお墨付きも頂いた。
だけど、合格するまでは、この不安と向き合っていなきゃならない。マジ焦っている。
焦れば焦るほど頭に入っていかない。
図書館はこんなモヤモヤを解消してくれるところではないと分かっていても、
こうして通ってしまっている。
不安が募って、手につかなくなれば、今日の作業はここまでと見切りをつけて、
筆記用具とノート、数冊の参考書をリュックサックにしまって、
あの水色のエプロンの司書に軽く会釈をし、それから階段を降りて、
柔らかい西日の差すコンコースを抜けると、
黄色く色づいた銀杏の葉の舞う公園通りを東に向かって歩き出した。
たぶん、あの水色のエプロンの司書は、どうしてオレが、
学校の図書館を利用しないのだろうと思っているだろう。
それは、小保方があそこを復習に使っているからだ。
小保方が好きなら一緒に勉強すればいいだろうと思うだろう。しかし、
そうはうまくいかないものだ。というか、勉強している姿を見られたくないのが本音だ。
「松澤くんが勉強している」って思われるほど、
否定したい天邪鬼なオレが心臓あたりに棲んでいる。
小保方の友だちらが、「勉強しなくてもデキる奴」と噂するのも聞こえてくる。
勉強なんて格好じゃないと分かっていても、
こんなちっぽけなプライドが邪魔をするものだ。
麻混のジャケットの裏ポケットからスマホを取り出して、
親指でアドレスを探る。こんな日は誰かにあって、気を紛らわしたほうがいい。
大して話すことはないけど、会っていれば気が紛れる相手…。
そんな都合のいい相手なんかいるものかとアドレスを辿り、
結局、去年卒業した、自分に一番面倒見のよかった先輩にLINEを繋いでいた。

(先輩:)「どうしてる?」<既読>
      「なんかね、気ばっかり焦っちゃって(^^;」(松澤:)
(先輩:)「いまちょっと忙しいから、あんま相手できねぇけど。よかったらこいよ?」<既読>
    「いっていいんスか?」(松澤:)
(先輩:)「手ブラでくんなよ。なんかもってこい。」<既読>
    「イェッサー!(`・ω・´)ゞ」(松澤:)

バス亭に向かう舗道沿いにある、オトコ一人で入るにはちょっと勇気がいるが、
コスパが手頃のドーナッツ屋に寄って、
オールドファッションとチョコレート掛けの箱詰めを買う。
店内は蒸せるような程の甘い匂い。制服姿の女子高生のグループがイートインしていて、
やっぱり、案の定、気恥ずかしい。あの女子高生のグループが、
自分になんら意識が向かないと分かっていても、
一緒にいるという空気だけで落ち着かない。
店員の「手提げはご利用になられますか?」の問いかけにも、
「ぁ…、はい。」と声が上ずっている。ナイーヴで内気ってわけじゃないけど、
やっぱり苦手だ、こういうの。
店を出ればちょうどよく、15m先のバス亭にバスが止まっているのが見えた。
尻のポケットからICカードを取り出し、この時間にしては比較的混んでる
ノンステップの車内通路の吊革に捕まった。
やがて、病院前を過ぎれば、車内もだいぶ空いて、リュックを両手に抱えて着席して、
また手持ち無沙汰からスマホをいじってる。
街道が立体交差する陸橋前のバス停で降りて、150mほどまっすぐ歩いたところに、
先輩のいるガレージがある。それから、客を装って店に入り、
奥の整備工場を覗いて、先輩を呼び止めた。

「おう。待ってな、こいつ終わったら休憩に入るから。」と、
オイルで汚れた白のツナギには、背中に赤いカタカナで
「メグロ」とネームが入っているのが先輩の目印だ。
「お気遣いなく。」と小さく声を掛ければ、
先輩は、ハハハッと笑いながら、真っ黒な軍手でセルを回してる。
オレはこういうオイルや、真新しいタイヤのゴムの臭いが漂う空間も嫌いじゃない。
そしてこんなメカメカしい場所ほど、男の仕事場っていう気がして、
そこで働く先輩がやっぱりカッコいい。ラウンジスペースのスツールに腰掛けながら、
バイクパーツのカタログをパラパラとめくっていると、まもなく、先輩が姿を現した。
先輩は斜向かいに座り、胸ポケットから無造作にねじり込まれていた
タバコの紙箱から一本取り出す。「吸うか?」と、
クシャクシャの紙箱ごと差し出されて、「いや、まだ学生ッスから」と断れば、
「だよな。」と、カチンと鈍色のジッポで火を付け、プクーッと吸って、
またそのクシャクシャの紙箱をクシャクシャに胸ポケットにねじ込んだ。
「 「どこでも、分煙とか禁煙だろ?ざけんじゃねーっつの。な?」とか呟けば同意を求めるが、
「だから、わかんねぇっす」と返し、さっき買ったドーナッツの箱を
「これ、みやげっす」と差し出した。
「なんだそりゃ?女くせぇ。」と悪態をつく先輩。
「ドーナッツっす。嫌いっすか。」といえば、
「…女くせぇのも、ドーナッツもだ〜い好き」とニンマリした。

2つ目のドーナッツを頬張りながら、「で、どーだ。勉強は進んでるの?」と先輩が切り出す。
「まぁ、受験っていうのはアレだ。能率がよくて効率がいいやつ。
 合理的で要領がいいやつ。そうゆうのが受かるんだ。つまり俺とは逆だ。
俺みたいな頑固者は、要領が悪いんだ。アハハハ。」と、先輩。屈託なく笑う。
「あはは。なんか自信が湧いてきたっす。」といって、先輩の笑顔に目を細めた。
「なんだそれ。バカにしてんだろ?あん?」といって、先輩は複雑な顔をさせた。
「いえ、ぜんぜん…
 っつーか、頑固者ってことは努力していたってことじゃないんですか?」
と持ち上げてみた。
「いや、努力っていうのはさ。好きなことにどんだけ打ち込めるかってことだろ?
 まず好きになるか嫌いになるかってところだ。俺は勉強が嫌いだったから努力しなかった。
 けど、バイクは好きだから努力した。そういうことだ。
 頑固者じゃないやつは、嫌なものでも努力する。
 つまり努力家ってやつはそういう奴らのことをいんじゃないの?」
いつもはどんな話題を振っても、おちゃらけるはずの先輩の言葉がちょっぴり沁みた。
「先輩は頑固者じゃないッスよ。お調子者かもしれませんけど。」といった。
「なんだとコノヤロー。」先輩は少し照れくさそうに笑った。
「そうはゆうけどさ。こういう仕事は頑固者じゃないとやれねぇぜ?
 とくに、ウチのような古いマシンを扱ってるような店はさ、客もこだわりハンパねーから、
 買いに来るのも、修理出すのも、一筋縄じゃねーのよ。」といって、
ガレージのほうに目をやった。それから、「俺が扱ってるアレもな、
 毎日調整してやってるんだが、師匠に訊いてもらうとさ、
 まだ(エンジンの)抜けがあめーな。っていわれんだ。俺はまだその域じゃねーからさ、
 やっぱよ、こーゆー仕事の職人はよ、すげーって思うんだ。」と、
ちょっぴり鼻を膨らませながら語る先輩、ちょっと格好よく見えた。
 「エンスージァスト…っていうんでしたっけ?そういうの。」
と尋ねたら、先輩は表情を曇らせた。
「俺の顔がエンスーってやつに見えるか?
 少なくとも、俺の知ってるエンスーって奴らは、
 こんな風にオイルまみれ、泥まみれの雑巾みてーな軍手はしてねーさ。
 仲間は一様に二輪自動車整備士だ。つまり、エンジニアだ。」
そこに、ガレージの方から先輩に呼び出しがかかった。
…確かに、エンスージァストという言葉には、旧き時代の趣を愉しむようなニュアンスがある。
だが、仕事として向かい合い、仕事を愉しんでいる先輩の姿に、
エンスージァストの言葉にはおさまらない気がした。
いそいそとガレージに戻ってゆく先輩の背中に
「もう少し、バイク見てていいッスかね?」と声を掛けたら、
先輩は「おう。ゆっくりしてけ。」と一言返して立ち去ってしまった。

ガレージのラウンジは、アメリカの雑貨屋のような雰囲気がある。
壁には”鈴鹿8耐”とペンで描かれている、色褪せたスナップ写真も何枚か貼られている。
先輩いわく、「社長が目指したのは、”西海岸のルート66号線沿いにありそうな、
ローカルで潰れかけのガソリンスタンド兼ガレージのイメージ”」だそうだ。
が、先輩たち従業員が面白半分にいろいろ持ち寄ったりしてたら、
ヴィレヴァン崩れのはすっぱな雑貨屋みたいにしちまった。ということらしい。
確かに、床は、ダイナーでは定番の白と黒のグランプリチェックのタイル張りに、
クロームメッキのテーブルにスツールが並んで置いてある。
ガレージが望める窓際に、2台の中古ジャックポットマシーンと
”FLYING A”と描かれたサビだらけのガソリンポンプがオブジェになって置かれている。
その横には、手作り感が漂う木製のピンボール台と瓶コーラベンディングマシン。
瓶コーラは従業員が自由にいつでも飲めるようにと、25¢コイン(クォーター)が
古いブリキ缶の中に無造作に入っていて、
機械に投入すればキンキンに冷えたコーラにありつける。
これは、社長さんからのささやかな”福利厚生”ということらしい。
また、展示してあるバイクも珍車が多くあり、
年式不明のハーレー・ダビッドソンのトライクや、
年季の入ったトライアンフなど、
マニア受けしそうなそれらには
「ASK!」と描かれた札が下がってあり、並んで飾られている。
ボクは瓶コーラの栓を抜いて、3ゲーム目のピンボールを叩いた頃、
先輩から声が掛かった。
「ちょっと外回りしなきゃならねーんだけど、
 何時に戻れるかわかんねーから、ついでに送るよ。」と。

軽トラに揺られながら、
「なんか話しあって来たんだろ?満足に相手できなくて悪いな。」と
すまなそうにしつつ、道幅の狭い住宅地を縫うように走ってゆく。
「いえ、先輩の顔見れたから、それでもういいっす。」
ぶっちゃけ、特に相談するほどの深い内容もなく、
先輩の顔が見れたは、まんま正直な気持ちだった。
「…なんだよ!カノジョの話かと思ってよ。」と、
先輩が冗談めかしでカマをかけてくる。
「そういえばよ、松澤の学校ってこの近くだったよな?」
「なにいってんすか、同じ学校だったでしょうが。」と、
車窓から見える景色は確かに見慣れた佇まいだった。
「連絡もらった家がさ、なんかこの辺らしいんだ…」と、超緩い速度で、
表札を確認しつつ巡っている。「…ここかな?」と軽トラを止めた家の庭には、
薔薇のアーチが掛かっている。「俺も、降りてもいいっすかね?」と、
助手席のドアを開け、先輩は「ああ。」と言って、庭先にまわり、
「ごめんください。バイク屋ですけどー」とテラスから母屋に向かって声を掛けた。
学校の近くにこんな屋敷があったっけ?と思うくらいに、それは立派な、
昔の醫院風な大正モダン建築の木造で、テラスは半円型に弧を描くように
庭に突き出でるように作られている。確かに洒落てはいるが、同時に、不思議と
生活感を感じない。しばらく待っていると、、瓦斯灯のような外灯が灯り、
奥から「はーい」と返事が聞こえた。程なく、テラス側のガラス戸が開き、
小花柄の薄紫色のワンピースに、ワイン色のニットのカーディガンを羽織った、
身支度の綺麗な老婦人が姿を現した。
「それで、連絡されたオートバイはどちらでしょうね?」と先輩が伺うと、
「あぁ、それね。こっちになるんですけど…」と誘われた場所は、
トタン屋根だがしっかりしてる別棟のガレージで、
もう何十年も開けた様子もないシャッターにも、
これもまた何十年も開けられたことがないような、
真鍮製の大きな南京錠が掛かっている。
ボクと先輩は、なんだか、まるで、大きなお屋敷の土蔵から、
お宝を探るような感覚に似て、ワクワクしてくる。
「その(南京錠)鍵はどこだったかしら。」と、老婦人は一度、母屋の方に戻り、
その間、先輩は荷台にある、工具セットと蓖麻子(ひまし)油を取りに軽トラに戻った。
それから、一見して鍵とわかる、
やや大きめの存在感のあるそれを握って老婦人が戻ってきた。
先輩が錆びた鍵穴に蓖麻子(ひまし)油を挿し、鍵を挿せば小気味よく、カチッと音を立てて、
南京錠を解き、ガレージを開けると、若干の埃とカビ臭さを漂わせた暗がりの、
空間に放置され、煤けたような埃を被るオートバイを見つけた。
ボクはまるで、何十年もの時間に閉ざされた空間と眠りから、
そいつを解き放した冒険者の感覚だ。
ドラクエなんかで、なにもしてないのにいきなりレベルUPしたような感覚だ。
が、対して先輩は冷静に、慎重にオートバイを庭先へ転がし、
軍手の指先で埃を拭いながら、機関部を念入りにチェックしている。
「まぁ、セルを廻してみないとなんともいえませんけど、
 オーバーホールをしてきれいにして、経年劣化した部品をすべて交換してあげれば、
 動くようになると思います。どうします?修理なさいますか」と、
老婦人に話しかけている。
「主人がいつ戻ってくるかわからないので、もう少しこのままにとも思ってはいたんですけど、
 動かないままのオートバイをしまっておくのも喜んでもらえないと思うしねぇ。
 いっそのこと手放してしまったほうがいいのかしらね。」と、
それほど表情も変えず、淡々と老婦人は応えた。
「せっかく来ていただいたのに、すっかりお茶も出すのも忘れてしまって…。
 いま用意しますから、一息ついてくださいな。」と、
いそいそと下がろうとする老婦人を先輩は呼び止め、
「お言葉に甘えたいのはやまやまなんですけど…」と、
話好きそうな老婦人の様子を察してか、
また、これから松澤を送り届けるという使命感もあって、
先輩は丁重にそれをお断りしつつ、作業依頼書のサインだけを貰い受けている。
「…とりあえず一応お預かりさせていただきます。
 ただ、完動するかどうかは…。僕もカタログなどでは見たことはあったんですけど、
 実物ははじめてで、いろいろ在庫パーツの保存状況とか確認しながら、
 だいたい一週間程度には状況を報告させていただきます。
 たぶん、社長なら細かく対応ができるとは思うのですけど…」と、
先輩にしては歯切れが悪い。それから先輩に促され、
一緒に軽トラの荷台に積みこみを済ませ、ロープを掛けた。
「よろしくお願いしますね」と老婦人に見送られ、軽トラを発車させて、
やがて母校の前の通学路を通過した。
すっかり陽も傾き、街灯が灯る住宅街の信号待ちしながら、
先輩がフッと溜息をついた。「ヤニ吸ってもいいかな?」と呟くと、
ツナギの胸ポケットの例のクシャクシャから一本取り出し、
おもむろにそれを咥え、軽トラの窓を開けた。
ボクは「先輩、あのハーレーって、どれほどのもんなんですかね?」と
なんとなく伺ってみた。
「そっか…。アレ、ハーレーに見えたか。」そういって、プクーッと煙を吐き出し、
「アレはハーレーじゃなくて、国産だよ。でかいけどな。
 陸王ってゆーやつで、それも戦前タイプ。パーツの在庫がなんていっては見たものの、
 図面さえあるかどうかってシロモンだよ。しかしきれいに残っていたな…。
 動かないとしても、メッキだけやっても十分映える上物だよ。オレも初めて見たさ。」と、
また、わずかに鼻を膨らました。
あのバイクに、旧き時代の趣を愉しむようなニュアンスはあまり伝わってこない。
無粋で、重厚で、今時のガキが、触るだけでも、憚られそうなマシンだ。
ただあの老婦人に不思議に縁を感じる。あのバイクをきれいに扱っているところを
あの老婦人に見せてあげたい。先輩は実務的に遮ったが、ボクはもう少し
あの老婦人のお茶を呼ばれて、会話をしてみたかった。
「先輩…。もしも、もしもあの婆ちゃんが、アレを手放したいっていったら、
俺に譲ってくれませんかね?」と、冗談めかしく尋ねてみた。
先輩は「松澤がアレを?はっはっは!」軽トラの座席がきしむほど笑う先輩。まぁ想定内だ。
「ハーレー以上に扱いが難しいぞ?それよりお前、まずは免許だろ?」と。
もちろんこれもその通り。
「けど、不思議な婆さんだったな…。上手くいえないけど、
 なんていうか世間離れしすぎっていうかさ。
 なんかあそこの家のあたりだけ時間が止まってるようなさ。」
確かに、ガレージのシャッターを開けた瞬間、
なんだか遠くの世界に引き込まれていくような錯覚を覚えた感覚はあった。
それに、あの老婦人の、いつ戻るかわからない旦那さんをじっと待っているような素振りも、
それがただ単純に彼女の記憶、思い出みたいなものに捕らわれている様子ではなく、
もしかしたら、まもなく旦那さんが帰ってくるのではというような空気が感じられた。
そういえば、学校のそばに、あんな家があったことも、
いままでそれに気が付かなかったことも思うと、実は、
あの空間の存在そのものが、どこか現実味のない、
まるで狐にでもつままれているような気がして、気味悪ささえ覚えた。
そっか、あの老婦人の話を聞きたかったのは、
その空気の正体を知りたかったのかもしれない。
「着いたぜ!」と、気がつけば自分の家の前に軽トラを寄せて、
ハザードランプをたいて、停車した。
「すんません。送ってもらっちゃリなんかして…」と
いって、軽トラを降りた。
先輩は窓を開け、顔を出し、
「また時間ができたら見に来いよ。磨いたコイツを見せてやるからよ。多分たまげるぜ。」と
いって、咥えタバコのままハンドルを切り替え、クラクションを軽く2回鳴らして、
先輩の軽トラは荷台の陸王と一緒に国道の方に向かって去っていいた。
ボクは部屋に戻り、ベッドに腰掛け、
カバンからスマホを取り出し、陸王の画像を検索した。
小保方を後ろに乗せ、海岸沿いを南下するイメージに胸を膨らませた。
なにげなく、気に入った画像の1カットをLINEに載せ、小保方に送ってみた。
まもなくして、小保方から返ってきたメッセージには、

(小保方:)それオートバイ?…松川君って機械工学系に進むんだっけ?(´・ω・`)
                                                                                            <既読>

と、とぼけた反応。

    いや、なんでもない。間違えた!おやすみ(松川:)

と、あわてて返信した。
そうだ。確かに、まずは入試、それから京都と免許だ。そう思うと、
オレの陸王が少し遠ざかっていくような気がした。



おわり
2016年2月8日 00:10:08

『哲学堂の哲学猫』



その学園の近所に、”哲学堂”と呼ばれる公園があるそうな。
学園の高等部の校舎の3Fから見下ろせば、その公園はこまごました住宅地の
屋根がその空間だけポッカリと空いて、広葉樹と常緑樹が覆い茂り、
野球グラウンドのフェンスが、大きくそびえ立っている。
由緒正しい公園らしいのだが、実際、その公園の由来に、近隣の住民は
それほど関心はなく、ただ、緑少ない住宅地のオアシスのような
ランドマークのような存在になっている。
公園には池があり、だれが放ったのかは知らないが、いつのまにか、
色鮮やかな鯉と、先祖返りした黒っぽい鯉がときどき水面を賑やかす。
もちろん、その鯉を冷やかしにくる野良猫も多数、目撃されるそうな。

その学園の生徒たちは、通学路になっているその周辺一体で
実に様々なものを発見し、マスコットのように見ているものも少なくない。
例えば、三叉路にある交番と隣の金物屋の隙間に小さな祠の、
赤い前掛けをした道祖神のお地蔵様。学園の壁新聞や、文化祭のキャラクターに
度々登場している。
パンダのような耳がついたメロンパンを売る、”大山パン”のおばちゃんも、
そのおばちゃんの人柄と愛嬌が愛されて、これも似顔絵にされて、
学園の様々な催しものに”顔”を出している常連だ。
そして、その中でも、隠れキャラに近いというか、
レアというか、それを見たら親指を隠さなければならないとか、
胸の前で十字を切らなければならないとか、
そんな迷信さえ生まれそうな…というほどではないけど、
見られればラッキー☆のような『猫』がいるそうな。

だれがいつ名付けたか知らないけど、
その『猫』にはいつのまにか『哲学猫』という愛称を持っている。
その猫は、学園の初等部の校庭の裏庭の、
自然体験学習用ビニールハウスの辺りでたびたび発見されるので、
どうやら、学園に住み着いていると噂されている。
その他にも、中等部の校舎と体育館をつなぐ渡り廊下。
用務員さんは、プールの浄化槽のパイプの下で
教頭は、校庭の隅の欅の下の、つつじの植え込みとパンジーの花壇の辺り、
校長が正門前で、しゃがみこんで『哲学猫』を撫でていたという証言など、
その目撃例には枚挙にいとまがない。
目撃に枚挙にいとまがないのなら、レアキャラではないと思うけど、
相手は猫。同じ猫を2回以上見るのは、運とかめぐり合わせとか、
それなりのものがついてないと見れないものなのかもしれない。
哲学猫の姿は、毛は白く、ただ鼻下に黒っぽい毛がチョコンって入って、
その黒っぽい毛がまるでひげを生やしてるようにも見える。
その風貌から哲学家っぽい猫、で、哲学猫と呼ばれる説、
しかし、一時は、学園の教職員たちには『チャップリン猫』と、
取り沙汰されたこともあったが、
学園の生徒たちには、その愛称はウケが悪かった。
また、ある生徒が踊り場で一人物思いに耽っていたり、
考え事をしている時に遭遇することが多いから、
いつからか哲学猫と呼ばれている説など、
やはりこれまた、その愛称の由来も枚挙にいとまがない。
しかし、いまではすっかり、『哲学猫』という愛称に統一され、落ち着いている。

その哲学猫の守備範囲も割と広い。
学園の外に飛び出せば、道路を隔てた向かい側の哲学堂公園。
鯉を冷やかす猫らの一味に加わってるいるかどうかまではわからないけど
たぶん、哲学猫の散歩巡回リストに入っているだろう。
また、公園角の守衛詰所の前、近所の病院の裏庭などにも、しばしば出没している。
公園前の側道を通学路にしてる小保方里笑も、何度か、この哲学猫と遭遇している。
彼女は、その猫を「シュレ君」と独自に呼んでいた。
「シュレ君」の名付けの由来は、もちろん、シュレーディンガーの猫。
ただ、シュレーディンガーの実験に使われた
悲惨なネコという発想というわけではないらしい。
シュレーディンガーの猫では、ひらたくいえば、
とあるネコを用いた実験装置で、その結果、ネコの生死の確率が50/50(フィフティフィフティ)で
あることによって、実験観測後に得られる結果には、実験観測前に想定される結果
(猫の生死がどちらでも予想される状況)を検証することができない、
科学的なパラダイムの確率課題と結果の二律背反性を含む矛盾ということだが、
彼女が哲学猫を「シュレ君」と呼ぶのは、
登校時か下校時のどちらかででくわす機会があること、
または、下校時と登校時に会える日があった時と、
全く会えない時がだいたい同じ頻度なこと、
総じて50%の確率で出会えるので「シュレ君」と呼んでいるそうだ。
里笑の発想、なかなか侮れない。

哲学猫のあずかり知らぬところで、このように、
学園の内外にファンを多く持つ哲学猫なのだが、
もうひとり、その猫に熱い視線をおくっている子がいた。
学園の正門より西南向きに、そこに3階建ての中規模な病院がある。
実はその病院、戦前からある”いにしえ”の病院であって、
周辺の住民もいざしらず、割りと遠方から通ってくる人も多い
信頼感の厚い病院だ。
その病院の2階には小児科付属の病弱児の病棟がある。
入院している3割は先天的脳性麻痺、ダウン症など染色体疾患を含む、
遺伝的疾患。ほか、小児がん、拡張型心筋症やボタロー管開存症など
先天的心疾患を持つ患児である。
どの患児も、長期入院、長期治療を要としていて、学童期以上を対象に
院内学級も備えている。
ここに、今年15歳になる、退院を3週間後に控えていたまゆちゃんが入院している。
まゆは6歳から、この病院で過ごしていた。
放火による火事で、2つ下の弟を失い、
まゆも右頬から右手、右半身の60%と右耳の聴力を失うやけどを負った。
実に何度も、大変痛い人工の皮膚の移植を受け、
歩くのも難しかった下腿も、それでも、12歳になる頃には、
なんとか松葉で歩けるくらいにまで、リハビリに励み、順調に回復していった。
そんなまゆの楽しみは絵を描くことだ。
まゆが好んで描くのは、あの『哲学猫』だ。
まゆは実に多彩に、表情も仕草も多様な哲学猫を何枚もあらわしている。
まゆのベッドは窓際に設置されていて、検査と食事以外の昼中の殆どは、
起こしたベッドに腰掛けて、窓辺を眺めては、スケッチブックいっぱいに
パステルと色鉛筆と、水性のカラーペンを使って描いている。

まゆはお友だちをつくるのが怖かった。
病院の中という特別な環境でも、医師や看護師、
ST(言語聴覚士)やPT(理学療法士)は、まゆに優しく接してくれていたが、
同い年や年下の患児さんやお見舞いや付き添いの子どものまゆに対する評価は
ストレートに辛かった。包帯の取れた素顔も、その違和感のある風貌は、
「おばけみた〜い」と揶揄われたりした。怖がって何も話してくれない子もいた。
まゆはおとなしい性格だが、負けず嫌いだ。
シャイで進んで多く話そうとするようなことはあまりなく、
また、表情がうまく作れなくても、まゆの瞳を見れば、
幼さの中にも、芯の強さをはっきり伝えている。
だから、院内学級の授業は必ず出席した。まゆを冷やかす声にもじっと堪えた。
その幼い反発心を知っている担当医師や看護師、両親は、そんなまゆの心を尊んだ。
でも、病室の日常は、殆どが孤独だ。まゆも絵に向かわないときは、
ただじっと、外を眺めていた。この変化のない病室と、自由な外。
たぶん、まゆにとって、この窓ひとつ隔てた向こう側は、
まゆの知りたいこと、楽しいことがいっぱい詰まったキャンバスだ。
季節はめぐり、梅雨時のじめじめと鬱蒼とした毎日の、
とある、小雨が未明から降り続くそんなある日の午後、
まゆはいつもどおりにじっと、病室の窓を開けた。
時として、この病室の窓は、まゆにとっては小さな劇場だ。
まるで舞台袖から、のんびりと、ステージの真ん中に現れるように、
その『ネコ』は姿を表した。
「そんなところにいると風邪ひいちゃうよ」と、そのネコに声を掛けた。
ネコはムクッって顔を上げて、まゆの顔を見つけた。
ネコは警戒している表情だ。前脚を伸ばし、歩みだそうとしては
くるっと頭を返し、まゆの方を見上げじっと見つめ、「ニャー」と鳴く。
まゆはおもしろがって、「ダメよっ」って声をかける。
ネコはまたビクッとして、見上げ、「ニャー」と鳴く。
そのやりとりが数回続き、やっと、のんびりと、植え込みの陰に消えていく。
これが、まゆと哲学猫のファーストコンタクトだった。
学園の生徒たちや里笑が、その哲学猫に遭遇するのが、
概ね、だいたい50%くらいにレアなのだが、
まゆと哲学猫が遭遇する確率は80%と高かった。
まゆはそのネコが、そのようにで会える確率がレアで、また
近隣の住民が『哲学猫』と呼び、慕われていることは知らない。
まゆにとっては、まゆに元気を与えてくれる幸運のふつうの白ネコだ
まゆはそのネコを見つける度に、なにかと一言、声をかけた。
「何して遊んでるの?スズメちゃんがいるの?」とか、
「車に気をつけてね。飛び出さないでね。」とか、
まゆのそういった呼びかけに反応すると、哲学猫は小さな耳を軽く震わせ、
顔を上げて、「ニャー」と鳴いた。

来年、まゆは晴れての退院と、特別支援学校の高等部への入学が決まった。
まゆは隔月1回の診察と聴覚検査と
リハビリのために病院に通院しなければならなかったが、
でも、ずっと憧れだった外の世界に飛び出すことができるようになり、
とても嬉しかった。もちろん、特別支援学校に通う不安も同じくらいあった。
いつもまゆの面倒みてくれる、まゆのお気に入りの看護師の美衣さんには、
何度も心の中を打ち明けた。美衣さんはいつも笑顔でじっと聴いてくれて、
それから、「まゆちゃんなら大丈夫。」って励ましてくれた。
それでも夜になると不安で涙が止まらなかった。
ある日の夜、まゆは孤独と不安と、
自分に負けてしまいそうなくらいの心苦しさに苛(さいな)まれていた。
夜のカーテンは開けちゃいけないのがルールなのに、その夜はルールを破って、
カーテンをそっと開けて、窓を開けた。すると…
まゆ劇場のステージの真ん中、いつものパンジーとダリアの植え込みの間に、
いつもの白ネコがじっとまゆの方を見上げていた。
暗闇でぼんやりと動くその白い姿、光る目。
まゆは「どうしたの?おうちにおかえり?」と声をかけた。
ネコはじっとしていた。それから何度か前脚で顔を掻き、その前脚をペロペロと舐め、
それから「ニャー」と鳴いて、いつもの植え込みの方に消えていった。
なんだかわからないけど、なんだかすっと不安がなくなっていった。
いつもと変わらないけど、いつもとかわらないそんなネコの表情が、
なんだか、「なんでもないよっ」て励まされている気がした。
まゆは窓の鍵とカーテンを締め、眠りについた。

退院の日、医師や看護師、それから一緒に生活してきた患者さんたちからの
カードや寄せ書き、花束を受け取って
まゆは病院のロビーで、パパが運転する車を車椅子で待っていた。
まゆは看護師の美衣さんに、「ねぇ、これ、どこに飾っておこうか?」と、
白ネコと”ありがとう”の字が入った絵にジグソーパズル用の額を付けてもらって、
まゆに見せていた。
まゆは、病室から見えていた植え込みの辺りにお願いしますと、美衣さんに伝えた。
パパの車が発車するまでの13分、まゆはもう一度、あの白ネコに会えないかしらと
キョロキョロ見渡すけど、遭遇の機会は叶わなかった。

まゆちゃんを見送った2時間後、美衣さんは裏庭で、ガーデニングに使う小さな緑色の台に
まゆちゃんの絵の額が雨に濡れないようにポリエチレンの袋をかぶせ立てかけた。
美衣さんは哲学猫の存在は知らない。
絵のモチーフの白ネコは、まゆの想像の中にいたのだと思っている。
それからまもなく、ナースコールのPHSが鳴り、そそくさと病棟に戻った。

蜩と邯鄲(かんたん)が鳴く。初秋のまだ、ちょっぴり残暑が厳しい夕暮れの側道で、
里笑は、久しぶりにシュレ君に出会った。シュレ君の前に近づき、しゃがんで頭を撫でた。
しばらく黙って里笑に撫でられていたかと思えば、すっと身体を起こし、
それからゆっくり歩きだし、病院の柵をくぐった。
里笑はその病院の柵越しから、シュレ君の行動を見守った。
彼は病院の裏庭の、絵が飾られた緑色のガーデニングの台の前に佇んで、
それから「ニャー」と鳴き、病棟へ顔を上げていた。
病棟からは声がなく、静けさを装っている。
里笑は、シュレ君の白い毛が、傾く夕日のオレンジ色が反射して染まる
その丸い背中を見届けて、そして、「また、明日も会おうね」って小さく声をかけたそうな。



おわり
2015年8月26日 15:26:32

『哲学猫の邂逅(かいこう)T』


              〜ルイス・キャロルに花束を〜



ネコに限らず、動物には、人間の知らない世界とか、
また、もしかしたら、時間とか空間が超越していることも、
それが彼ら動物には普遍的に触れられ、
見られることができるとしたら…。
いま、我々、人間が日常的に見られ、
こうして、日々、生活しているこの世界は、
単純に、人間の脳が作り出している実像の一部分でしかないのだとしたら…。
今回は、そんな能力に触れた『哲学猫』からの視点から、
ちょっぴり非日常で不思議な世界の話。

。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜

遅刻ウサギの日常は常に慌ただしくて、
チェシャ猫の尻尾を踏み越え、テーブルクロスに後ろ脚を引っ掛けたら、
エッグスタンドに立てた虫食い穴細工のエッグアートがころんと転がり落ちて、
大理石のタイルの床にあたって2つに割れた。
「女王様のエッグを!なんてことをしてくれたんだい!」と
慌てて怒鳴ったのは、487個目の虫食いエッグをキャビネットに並べ終わって、
戻ってきたばかりのずんぐりむっくりなハンプティダンプティ。
通称は「皮肉屋(アイロニカル)男爵」だ
チェシャ猫はいつもと変わらずニヤニヤしながら、
尻尾で片割れのエッグアートをひょいっと拾い上げ、
遅刻ウサギめがけて投げつけると、帽子のように頭に被さり、
虫食い穴から両耳も突き出せた。
「とってもお似合いだよ、カリメロウサギ」と
ニタニタと嬉しそうに笑うチェシャ猫。
それに反し、ハンプティダンプティは、ご立腹のご様子。
「そのエッグアートは491番めに並べる予定だったんだ!
同じものを見つけてくるまで、こうしてくれるわ!」と、
遅刻ウサギの首に下がった、機械職人のローレンツ爺さんの
手造リの懐中時計の真鍮の鎖を引っ張って、ミンコフスキーのお仕置き部屋へと
遅刻ウサギを連れて行った。
「お願いだ〜!あの部屋には連れて行かないでおくれよ。
 こんなところでまごまごしてられないんだよ〜。」と、叫びながらも、
ハンプティダンプティにズルズルと引っ張られ、気がつけば、
ケージのような鉄格子に囲まれた、そのミンコフスキーのお仕置き部屋の前。
ハンプティダンプティが懐から鍵束を取り出し、
じゃらじゃらと73番めの鍵を選んでいる時、その隙を突いて、
来た道を戻ろうと、一気に飛び出そうとする遅刻ウサギ。
ハンプティダンプティがぎゅっと握っていたローレンツ爺さんの
懐中時計の真鍮の鎖がピーンって引っ張られ、まもなくプツンと千切れた。
「あぁ〜!時計時計。お願い返して〜!」慌てて戻ってくる遅刻ウサギ。
「お前の大事な、この時計と同じように、お前が被ってるタマゴの殻は
 女王様の大事なものだったんだ。少しはここでしっかり反省し給え。」と、
鉄格子の扉を開けた。
ミンコフスキーの部屋は、最初は女王様用のバゲッジ"Baggage"ルームだったが、
修繕を重ねていくうちに、いつのまにか"Garbage"(ゴミ)部屋になっていた。
それを女王様が面白がり、ハンプティダンプティに命じて、
特別に誂(あつら)えさせた仕置部屋である。
部屋の真ん中には、魔女のスープの鍋のような半円形の容器がある。
"Garbageの浴槽"と呼ばれるそれは、中は青白く、底が見えず、
そして、グツグツと煮立つような音と、白い湯気が立ち上る。
ハンプティダンプティは躊躇いなく、遅刻ウサギの時計をその容器に放り込んだ。
「あー!なんてことを!!」と、続けて、鉄格子の扉から一直線に突進して、
遅刻ウサギもその穴に飛び込んでしまった。穴の中は無限に、
そして円錐状に広がった空間の、向かってやや斜め右上というか、
北東寄りに懐中時計と一緒に、穴の奥へと吸い込まれるように堕ちていった。
「オマエなんか、2度と帰ってくるなっ」と、ハンプティダンプティの高笑う声が
どんどんと遠ざかってゆく。

しばらく吸い込まれていたと思うと、突然、その空間に光が差し込んだ。
そこは、高度8000mくらいの東京上空。しかし、ずっと一緒に漂ってる湯気は
遅刻ウサギを包んだまま、やがて、雲のように漂った。
しかし、遅刻ウサギは、まっすぐその地上へと降下している。そして、
気がつけば、遅刻ウサギのすぐ眼下には、1台のトロリーバスの天井が迫っている。
「ぶつかる!ぶつかる!」と叫びながらも、
トロリーバスの天井めがけてぐんぐん落ちてゆく。が、次の瞬間、
まるで浮力でも得たかのようにふわっと落下速度が緩み、
ゆっくり、そのトロリーバスの天井に降り立つことができた。
遅刻ウサギが降り立ったトロリーバスは、まもなく、
正面にデパートがある駅の東口の、ロータリーの際の電停に停車した。
遅刻ウサギは、ぞろぞろとトロリーバスから降りる乗客を
天井から見下ろし、それから、初老の紳士のひとりが被る
麦わらのカンカン帽めがけて、トロリーバスの天井から飛び降りた。
それから、麦わらのカンカン帽頭を後ろ脚で蹴飛ばし、
隣の婦人の抱えている風呂敷包みに片脚を引っ掛け飛び移り、
器用に着地して、一目散に、駅前の交差点を南へピョンピョンと飛び出していく。
帽子ごと頭を蹴られた初老の紳士は、同時にメガネも飛ばされて、
わけがわからず、呆然としながら、その場にしゃがみ込みメガネを拾う。
傍らで、風呂敷がめくれ、「スピルカ」と書かれた箱を覗かせた婦人が、
「大丈夫ですか?」と声をかけた。
2人にはなにが起こったか全くわからない。きつねにつままれたように
キョトンとしてお互いの顔を見合わせている。
「さっきのは、”かまいたち”ですかね。えらい目にあった。」と、
落とされたメガネを掛け直し、ゆっくり立ち上がった初老の紳士は、
傍らの婦人に軽くお辞儀をして、苦笑いを浮かべた。
それから2人、アドバルンの揺れる、駅前のデパートに消えた。

。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜

その同じ日、哲学猫はいつものように、公園や学園の周りを巡回したあと、
あくびをして、交番の前でゆっくり寝そべった。そこに、ランドセルを背負った少年が、
どこかで拾ってきた500円玉を握って、交番を尋ねた。
そして、彼は、恭(うやうや)しく巡査にそれを預けた。
巡査に「そこに掛けて、ちょっと待ってて。」と、鉛色の丸椅子に彼を促したが、
彼は、両手を後ろに組み、遺失物届けを作る様子を興味深そうに眺めている。
「ボク、傘はあるかな?そろそろポツポツ来そうだぞ。こりゃ。」と、
見上げれば確かに、雨が降りそうでどんよりして辺りも暗い。
「ありがとうございました。」と巡査に一礼して、
黒い学帽を被り直した少年が交差点の横断歩道を渡り、
「一方通行」の標識のある小道へ小走りに向かっていった。
巡査は「寄り道しないで真っ直ぐ帰れよ。」と、
彼の背負った黒いランドセルに向かって声をかけた。哲学猫もムクッと起き上がって、
いつもの巡回範囲というか、守備範囲とは違う横断歩道の向こう側へ、
まるでランドセルの少年の後を追うように渡ってしまった。
少年の向かったその小道は、車が1台、なんとか通りぬけできそうな道幅で、
両側は閑静で瀟洒な住宅が並んでいる。いつもは、公園の緑とか、茂みとか、
学園や病院の植え込みとか、自然の景色ばかりを縄張りにしていた哲学猫にとって、
こんな住宅地を闊歩するのは、まさしく彼にとっては”冒険”だ。
やがて、哲学猫は「コバタ」と描かれた赤い文字が左右に揺れる看板の下で、
鎖の千切れた鈍色に光る懐中時計を見つけた。
哲学猫は、ランドセルの少年の追跡をやめ、その時計の前に佇み、「ニャー」と鳴いた。
やがて小粒ながら、やや冷たい雨がさざなみのような音を立てて降りだした。
哲学猫はその場にじっと佇んでいると、フワッっと外の景色が薄紫色の傘に遮られた。
「おやおや、懐中時計を見つけたのかい?」と、哲学猫に声をかけたのは、
身なりの整った、お洒落な老婦人で、その場にしゃがむと、そっとその時計を拾い上げ、
ついでに、哲学猫に「そんなところにいたら、お前も風邪をひいちゃうだろ。
 ビスケットをあげるからついておいで。」と、物腰も柔らかく哲学猫を促した。
哲学猫は黙って、この老婦人の後をついていった。ふた区画ほど歩いた後、
薔薇のアーチがある庭の柵の扉を開け、その老婦人は、
哲学猫を半円型のテラスの白い軒下へと誘った。
まもなくして、エミール・ガレ風のスタンドに明かりが灯され、
それから、テラスのそばの植え込みから、ジャーマンカモミールの葉を何枚か契り、
家具調のセパレート型のステレオの蓋を開け、SPレコードに針を落とし、
ブツッブツッとノイズを拾いながら、
Rose Avrilの”Chaque soir j'attends l'amour”を奏ではじめた。
そして、老婦人は奥のキッチンへと消えていった。
やがて、若干に雨が強くなり、かなしいかな、
あの家具調ステレオから流れてくるシャンソンは、さっきよりも強く降る雨が、
テラスの屋根を叩きつける音でかき消されてしまう。

それからしばらくすると、単気筒で乾いたマフラー音がドゥルルルンと響いて、
庭の薔薇園の向こう側のガレージ風の建物に1台のバイクが止まった。
「おや、旦那が帰ってきたのかえ。」と、老婦人がキッチンの奥から顔をのぞかせた。
すると同時に、植え込みや生け垣の葉がカサカサと揺れて、
テラスの傍のグラジオラスの花壇から、少しくたびれて、ほころびだらけの
黒いベストを着た、穴だらけのタマゴの殻を被ったウサギがピョンって飛び出してきた。
その不思議な風体のウサギは、テラスの白い軒下で
丸くなったままじっとしている哲学猫を見るやいなや
「チェシャ猫?…じゃないねぇ。キミは誰なんだい?」と、言葉を操る。
そう、そのウサギはこの雨雲と一緒に、東京上空から落ちてきた、あの遅刻ウサギである。
遅刻ウサギは、哲学猫を一周しながら、じーっと様子を伺っている。
哲学猫はというと、目の前に突然現れた言葉を使うウサギを怪訝に思い、
前脚をピンッと立てて身構えて威嚇する。
遅刻ウサギは、そんな哲学猫の態度を宥(たしな)めるように、
「まぁいっか。ボクはキミが、なんで言葉を発しているのかを、
 不思議に思ってるのがよくわかるよ。」と言い、それから、
「いま、雨が降ってるのは、あのベルクソンの雲のせいだ。キミは、
 あの降ってくる雨粒を数えることができるかい?」といいながら、
目をキラキラさせて、哲学猫に擦り寄っている。
それから、畳み掛けるように、遅刻ウサギは、
「ボクはね。あのベルクソンの雲の切れ目から、地上に降りてきたんだよ。」
と言った。ただ、実際は、降りてきたというより、その遥か上空から突き落とされた。
というほうが正しいのだが。
哲学猫は「僕は…。」と一呼吸を置いて、
「僕は、ウサギがしゃべるなんて思わなかったし、もちろん、
 雨粒を数えてみようなんてことも考えたことがなかった。」と、
遅刻ウサギに伝えた。喋ったわけでも鳴いたわけでもなく、
不思議と、その変なウサギに、意思を伝えることができた。
遅刻ウサギは、さも、ネコが意志を伝えるのは当たり前で
ことさら驚く様子もなく、時折、後ろ脚で耳の後ろを掻く仕草をカマせながら、
「ボクもだ。ボクも雨粒を1つずつ数えたりしたことはないさ。
 でも雨粒を数えられるかどうかが大事なことじゃないんだ。
 雨粒は数えることができることが大事なんだ。」と、
鼻をヒクヒクさせながら、得意げに言った。
哲学猫は、大概はケージの中で
牧草をむしゃむしゃ食べる学校ウサギと変わらない容貌なのに、
短足な後ろ脚で、凛と立ち、変な卵の殻を頭に乗せて、
ほころびだらけだが畏(かしこ)まったベストを着込み、
さらには流暢に言葉を発し、態度は、はなっからの上目線の胡散臭い
この変なウサギに、しばらく戸惑って、様子を見ていた。
しかし何故だか、このウサギには、哲学猫のいつも変化のない、
退屈な日常の中で鈍くなった感覚を取り戻してくれそうな雰囲気を醸し出している。
どこか浮世離れをしていて、どこか現実味がないが、
気取っていて愛嬌のあるそのウサギに、哲学猫は興味を持った。

そこに、「おや、さっそくお友だちかえ?そうそう、紅茶も出来たし、
 ビスキュイもあるから、一緒におあがり。」と、老婦人はキッチンから戻り、
哲学猫にそっと声を掛けた。
さっき掛けてくれていたレコードは曲が終わり、針はノイズだけを拾っている。
老婦人の2枚めのレコードは同じRose Avrilの”Tes Mensonges”を選び、針を乗せた。
「こんなところで紅茶にありつけるなんて!」と、遅刻ウサギはテンポよく、
ピョンピョンとテーブルチェアに飛び乗り、そのままトントンと
テーブルの上にまで飛び乗ってしまった。
「おや、行儀が悪いね、このウサギは。ちょっと待っていてごらん。」と、
老婦人はキャビネットから、小さいサボテンを乗せていた、
ミニチュアの木製の椅子テーブルを持ちだして、遅刻ウサギの前に起き、
ギンガムチャックの木綿のハンカチーフをテーブルクロスにし、
陶製でジノリ風のデミタスサイズのティーカップに紅茶を注いだ。
遅刻ウサギは卵の殻の帽子をとることも、丁寧なお辞儀もすることなく、
ミニチュアのテーブルチェアに腰掛けて、デミタスカップを両前脚で受けて、
注がれた紅茶の香りを愉しんだ。
「ボクはアッサムが好きなんだけど、この摘みたてのジャーマンカモミールの甘い匂いの
 ダージリンも嫌いじゃないよ。」といって、それを一口すすった。
老婦人は、哲学猫には、「お前はそこでいいよ。ちょっと待っててご覧。」と、
老婦人の足元で顔を上げてじっとしていた哲学猫をそっと抱き上げて、
柘榴(ザクロ)と枇杷(ビワ)と青葡萄がのった黒漆のフルーツ皿を避けて、
そのフルーツ皿の下に敷いていた寄木細工の平たい鍋敷きを座布団にして、
それに哲学猫を乗せ、老婦人は哲学猫の背中を擦って寛(くつろ)がせた。
哲学猫は風にのる草花の匂いで、いつも季節を感じていた。
だから、哲学猫にとって、目の前に差し出された、
ジャーマンカモミールと紅茶の香りは、あまり馴染みのないものだ。
春は通学路の桜並木、晩春から初夏にかけては公園の植え込みのアベリアやチェスナット。
夏は病院の裏庭で、蒸せるほどに蔓延るドクダミの臭い…、
そして、初秋は学校の花壇の方から秋蒔きのキンセンカと、
初等部の校庭のタイヤ山と雲梯の間にある金木犀(キンモクセイ)、
それから雪山を下ってきたような、冷たい北風に木枯らしを感じて冬を悟った。
紅茶の香りを嗅いでは一口すすって、紅茶をもったいぶるウサギを横に、
同じ紅茶から漂うジャーマンカモミールのその、馴染みのない甘い香り、
立ち上る湯気に鼻を揺らし、差し出されたビスキュイの欠片を一口かじった。
そのビスキュイはうす甘く、高等部のグラウンドの砂に食感が似ている。
1羽1匹に紅茶を振る舞った老婦人は、テラスから色彩の消えた庭を見ながら、
「そういえば、なかなか姿が見えないねぇ、ウチの旦那は。
 せっかくの紅茶も冷めちゃうね」と、雨で曇って、ただのモノトーンの薔薇園の
奥にあるガレージをチラチラと覗き見た。
それから、紅茶が冷めるのをじっと待って、
紅茶を、ただ眺めてる哲学猫の方に顔を向けて、
「あっ、そうそう、さっきの懐中時計ね。
 鎖がちぎれてるから直してあげないとね。」といって、
袋状に折りたたまれた風呂敷を広げると、懐中時計と千切れた鎖を大切そうに手に乗せて、
それらをテーブルの上に置くと、老婦人はキャビネットの引き出しから、
手芸用の道具の入ったブリキの缶を持ち出し、リビングの出窓にあった
さっきのエミール・ガレのスタンドより一回り小さい電気スタンドを取り出して、
またテーブルに戻り、椅子に腰掛けた。
遅刻ウサギは、間髪をいれず「あ!それはボクの時計!」と、
ミニチュアの木製の椅子を後ろ脚で蹴飛ばして飛び降りた。
ブロンズ色の老眼鏡を掛け、器用に手芸用のニッパーを操り、
ちぎれた鎖を直してゆく、老婦人の指先をじっと見つめては、
気になってソワソワしている。老婦人は、その鎖に、新しい金具を嵌めこみながら
「アタシは時計職人じゃないから、
 止まってるこの時計の中身までは直すことは出来ないからね。」
と遅刻ウサギをやんわりと宥めた。
遅刻ウサギは顔を上げながら、「ううん。壊れてなんかないよ。簡単には壊れないさ。
 だって、この時計はローレンツ爺さんのいちばんの傑作で、ボクだけに
誂(あつら)えてくれた自慢の懐中時計なのさ。」とヒクヒクさせる鼻を、
また、ちょっぴり膨らませてる。
老婦人はその時計を耳に当てた。すると、小さな歯車が重なり、
ゼンマイの音がコチコチと微かに時間を刻んでる。
「おや。確かに動いてるのに、秒針すら動かないじゃないかい。」と
不思議そうに時計の盤面を眺めた。
「そう、それでいいのさ。その時計はいつも3分前なのさ。」と
遅刻ウサギは得意そうに呟いた。
「だからボクは、ずっと忙しいし、セカセカして落ち着きがないのさ。
 おばあさんだってそうだろ?。ずっと旦那さんの帰りを待ってる。もう何年もだ。」と、
老婦人の掛けてる老眼鏡に、さっきよりも自分の姿が
映りこむくらいに背を伸ばして、顔を上げる。
老婦人は少し怪訝な表情を浮かべて、ニッパーを持つ手を止める。
「おかしなことをいうウサギだねぇ。さっきのオートバイの音が聞こえなかったかい?。
 旦那はもうすぐここにやってくるのさ。旦那はね。アタシの淹れた紅茶が好きで、
 もうすぐこのリビングにやってくるのよ。」と、遅刻ウサギに微笑みながら言い宥めた。
哲学猫は、この老婦人とこの黒いベストを着た、さっきから変なウサギとのやりとりを
困惑しながら眺めてる。眺めながらふと、
もしかしたら、目の前の彼らが、ただ浮世離れしてるだけじゃなくて、
実際は、それらには実体がなく、きっと夢を見ているような
ある意味、錯覚の中にいるのではと思いはじめた。すると突然、
遅刻ウサギが哲学猫の方に振り返り、
「キミは、ボクらが幽霊かなにかと思ってるだろ?」と直感鋭く反応した。
いまの哲学猫の洞察をまあまあ言い当てた。
「だけど違うよ。幽霊の殆どは人間が作り上げたもの。
 虚像さ。ボクらは虚像じゃない。たまたま僕らの、
 それぞれに棲んでいる空間が重なったところに遭遇してるだけさ。」と言って、
哲学猫を窘(たしな)めた。
哲学猫は「…僕はネコだから、人間が作り出したものなんてよく知らないよ。
 だけど、たまに感じるものもあるよ。そういったことを。
 平べったかったり、消えそうだったりするけど、確かに。」というと、
遅刻ウサギは続けて「幽霊のようなものが在るのは不思議じゃない。
 空間がひとつしかないと思ってしまえば、幽霊になっちゃうのさ。」と言った。
そして遅刻ウサギの饒舌な講義がはじまった。
「さっきいっただろう。キミはあの雨粒を数えられるかって。
 ボクらはっていうか、キミも含めて、あの落ちてくる雨粒と同じなんだ。
 例えば3つの雨粒が重なった偶然の瞬間が今なんだ。」
「いま?。」
「そう、現在(いま)さ。キミの雨粒と、あのご婦人の雨粒と、ボクの雨粒さ。
 それぞれの雨粒が地表に落ちるまでが時間さ。
 だけど、雨粒が物質だとか重さがあるとかいまは関係ない。
 雨粒の降るそれぞれの空間の大きさが大事なのさ。
 空間の大きさが違えば、時間の経過も違うんだ。」
哲学猫の苦悩は続く。
「じゃあ、自分たちがそれぞれ一粒ずつの雨粒なら、
 数えられるかどうかとなんの関係があるんだい。」と訊けば、
「それは、ボクらの空間の座標と時空の発生の機序のことさ。
 雨粒が落ちるまでの、時系列のことさ。時の経過は数えられなくてはならないんだ。
 数えられるという法則性がなければ、
 なにもかも実体も存在もないことになっちゃうのさ。」
「数えられるから、君も僕も、老婦人も存在しているってわかった。なんとなくだけど。
 だけど、空間の座標ってなんだい?。」
と、一問一答、まるで学校の教室の生徒と先生の立ち位置だ。
 遅刻ウサギはまた得意顔になった。
 雨粒だって、おんなじ雲から生まれるわけじゃないだろう。  もともと、雨粒は雲の中で生まれる氷の粒さ。
 地表に落ちてくる途中で生まれる雨粒もあるはずさ。
 歩みの遅い雨粒と永遠にかち合うことはないことはない。
 地表に落ちてくる間に生まれた雨粒が、歩みが遅い粒だってこともある。
 この空間に、それぞれ発生したカタチも体積も違う、僕らの雨粒の点在。
 つまり現在の、”ここ”のことさ。
 雨粒だっていろいろさ。もちろん、地表までの歩みが早い粒も遅い粒もある。
 風が吹けば、雨粒の降り落ちる角度が変わることもある。
 意外や偶然に思うことだって、ホントは、
 そういった自然の摂理や法則に従っているものかもしれないのさ。
 それに、今日はベルクソンの雲も現れた。
 ベルクソンの雲は、ボクのいる空間と、
 キミのいる空間を一時的に繋いだ空間の歪みのようなものさ。
 それは霧のときもあるし、虹やオーロラのときもある。出現のプロセスはよくわからない。
 だけど、今日は、おしおきのミンコフスキーの部屋から突き落とされて、
 あのベルクソンの雲と一緒に、ここに落ちてきたんだ。だけど、これも、偶然とはいえない。」
といった。
哲学猫は、ベルクソンもミンコフスキーもよくわからないけど、
この饒舌に言葉を操る不思議なウサギが目の前にいる事自体、
じつに奇異で謎で、しかし強く惹きつけられ、
だからいちいち神妙な顔をして、フンフンと頷きはじめる。
そんな哲学猫の気概もお構いなしに、遅刻ウサギは得意げに講義を続ける。
「じゃあさ、例えばだよ?。氷のまま地表にそれらが降り落ちて来るとしよう。
 もちろん雪でも霰(あられ)でもいい。
 5cm平方のガラスの板に1秒だけそれらを採集すれば
 キミだって容易に数えられるはずさ。それが実体さ。
 しかしキミたちはその実体を意識しようとはしていない。
 自然に普遍的に起きていることも、意識的に見なければ
 いまキミの目の前に起きてるいるようなことだって不思議に思うものなんだ。」と。
そして、「ただ、雨粒が地表に落ちるまでが、空間が持ってる時間だとするとね。
 空間が今と同じ時間を共有していても、ボクたちはそれを知る
 手がかりがないのさ。だってそうだろ?。空間は見えないし、形がないんだ。
 だけど、雨粒は物質だから、見えることも数えることもできるはずさ。」
遅刻ウサギと哲学猫のやりとりを黙って聴いていた老婦人は、
いつの間にかコックリコックリと船を漕いでいる。
「さて、ボクらもそろそろお暇(いとま)しようか。」と、遅刻ウサギは、
ピョンっとテーブルから飛び降り、テラス際のロッキングチェアの上の
無造作に転がってる毛糸玉を蹴り上げ、さっきのグラジオラスの植え込みの方に走ってゆく。
哲学猫は老婦人にお礼を告げるように「ニャー」と一声鳴いて、
それから、椅子に腰掛けたまま転寝する老婦人のひざ掛けを伝って、
床に降り、遅刻ウサギの後を追った。
中庭に出れば、雨はさっきより弱く、霧雨のようで、
その雨粒は数え切れないくらい細かくなってる。
遅刻ウサギは空を見上げ、「さっきも言ったようにボクは
 あのベルクソンの雲から落ちてきたのさ。」と呟いた。
哲学猫は「そうだ、あの老婦人に紅茶と
 ビスキュイのお礼をいってないけど…」と呟くと、
遅刻ウサギは「きっと、あのおばあちゃんは、目が覚めたら、
ボクらに紅茶を振る舞ったことさえ覚えてないさ。」と言った。
「でも、ティーセットや紅茶の出がらしや、
 お皿のビスキュイの屑が残ってるじゃないか」と言えば、
「そうだね。だけど、ボクらに振る舞った記憶はないさ。残念だけど
 誰かの記憶は数えられないんだ。つまり実体がないんだ。
 きっと、いつかの誰かが尋ねた客の名残だと思って、
 綺麗に片付けるさ。」と言った。
「ねぇ、記憶に実体がないから無責任でいいっていうことなのかい?。
 君は何らお礼もなく、せっかちに飛び出してきて、それって無礼じゃないのか。」
と彼を咎めた。紅茶やビスキュイを、僕たちに振る舞った、
あの老婦人のおもてなしとまごころに
なんの恩義も触れない彼の態度に、僅かに苛立ちと後ろめたさを感じていた。
「記憶は空間さ。実体はないよ。だけどボクらがいるここが、
 あのおばあちゃんの記憶の中にある実体さ。」
と遅刻ウサギは呟いた。
「さっきもいっただろ。この出会いは偶然じゃなって。
 つまりボクらのこのひとときは、あのおばあちゃんの記憶が引き寄せたのさ。」
哲学猫は「どういうこと?」って訊くと、遅刻ウサギは
「記憶は空間さ。実体がない。だけど、記憶の中には実体があるってことさ。
 ボクはね、思うんだ。もしかしたら、この空間自体、誰かの記憶の中で展開されている
 空間なのかもしれないってね。人間の数だけ、人間の記憶が持っている空間に、
 ボクたちがすんでいるんじゃないかってね。」
そして、遅刻ウサギは、顔を上げ、もう一度、雨模様の空を眺めた。
「さっき、ボクが時間の経過は、数えられなければいけない。
 時間は法則に準じ、実体を伴わなければいけない。
 だから、キミはたまたま、実在の在る人間と同じ時間の中で活動している。
 それは地球が太陽の周りを365日周期、自転を24時間周期の中で活動するという
 自然の法則性を”時間”の概念に従っている、でもだからといって、そんなことに
 たいした意識も興味も持たなかったはずだ。
 太陽が昇れば朝昼だし、太陽が沈めば夜なのさ。それが、キミの世界の中の
 常識だからね。でも、宇宙というか、この空間はキミが想像する以上に
 遥かに、もっともっと広いものなんだ。
 例えば、何千年かかって、やっと一日が終わる周期の星や、
 逆に、数秒で1日が終わっちゃような星だってあるのさ。
 時計は人間が発明した、人間にとって非常に便利で合理的なものさ。
 実はボクの住んでる空間は、実際は、今が何時なのか、何日なのか、
 何曜日なのかもよくわからない。だから3分後はどうなっているのかもわからないし、
 もしかしたら、永遠に3分後はやってこないかもしれない。
 それだけ、時間は無数にそれぞれ周期を持って活動している。
 それらと、同じ数だけ法則だってあるし、空間があるのさ。だから、もしかしたら、
 たまたま、空間がたくさん重なってるとこは、なにか不思議なことが
 起こるかもしれない。あのご婦人の記憶の中に迷い込んでしまったことも、
 ベルクソンの雲が現れたのも、
 いまのここがそういう場だったからかもしれないんだ。」
遅刻ウサギの話を黙って訊いていた哲学猫は、両脚をいっぱいに伸ばしながら、
ゆっくり背伸びをして、再び、遅刻ウサギの方に顔を傾けた。
「君の話はたしかに興味深いよ。だけど、ボクはいま、ボクの意志で生きているし、
 生活しているのさ。このボクの意志も誰かの記憶の中なのかい?。」
そういって、遅刻うさぎの話が戯言のような気がして、窘(たしな)めた。
すると、「記憶は空間だけさ。その中の誰かが何をしたかなんてなんにも問題ないのさ。
 例えば、キミが夢を見る。夢の中で誰かと誰かが話してるとする。
 キミはその誰かと誰かの話に興味がなく、通り過ぎてしまったところで
 目が覚めたとする。キミは、夢の中で出てきた彼らの会話の内容を覚えているかい?。
 キミの夢の中の誰かは、ちゃんと意志をもっていた。だから誰かと会話することが
 できたんじゃないのかな?。キミは朝起きたら、全て忘れてしまっているかもしれないけど。」
哲学猫は、「君の話は屁理屈すぎるよ。詭弁だよ。僕は誰かの記憶の中で
 生きているなんて信じないよ。」といった。
遅刻ウサギは、「そうだろうね。確かに突拍子もないし、だれも検証したことがない。つまり、
 それはいまこの空間が、それだけ実に曖昧にできているということからね。」と
僕の言葉を一瞥した。そして
遅刻ウサギは再び、彼は彼の持論のこだわりというか命題から、言葉を切り出した。
「キミは夢の中で数を数えたことがあるかい。きっと数えることができるはずさ。
 でも、数え間違っているかもしれないし、数えた数を忘れてしまうこともある。もちろん、
 目が覚めたら、数えたことなんて、どうでもいいように思うようになるさ。それくらい、
 曖昧なものなんだよ。そして…、
 それと、いまボクたちがいる景色をよく観察してごらん。」といった。
確かに、彼に促されて見る景色。雨模様の町並みは
薄墨で描いたように輪郭もはっきりしない。
それと、実際は舗装されているはずのいつもの道路は、
小石が散らばり、ゴロゴロとしていて、
まるでどこかの堤防の小径よう。
「こっちにきてごらん。もっとはっきりするよ。」と導かれるようについて行くと、
割と喧(けたた)ましい音のする警報機のある踏切に、
これまたやたら音が大きくて、馴染みのない
オレンジとクリーム色の電車が走ってゆくのが見えた。
その踏切の角のお菓子やさんには、『ルメラヤキクルミ』の看板が掛かっている。
ルメラ焼きのくるみなんて、食べたことはないし、
どんなモダンな胡桃なのかと不思議に思った。
「それはきっと逆から読むのかな。」と遅刻ウサギは、また鼻を膨らませた。
なるほど、逆さに読めば「ミルクキャラメル」になった。食べたことはないけど、
そういえば、あの、入院していたまゆちゃんが、
病院のクリスマスパーティで貰ったお菓子に、そのミルクキャラメルがあった。
まゆが哲学猫にそのミルクキャラメルの一粒をおすそ分けしようと、
裏庭で差し出すと、それを見つけた看護師さんに、
「ネコが虫歯になっちゃうから。まゆちゃんが食べて、それから、ちゃんと歯を磨きましょ。」
 といって、くれようとした手を引っ込めてしまい、
 お預けにされたアレのことだって思い出した。
「ボクは食べたことがあるんだ。女王様のエッグタルトには焦がしキャラメルがのってる、
 クレーム・ド・ブリュレのようなタルトなんだ。」といった。
哲学猫は感心を通り越し、呆れながら、
「君は、なんでも知ってる、きっともの知りなんだね。だけど、残念だけど、
 僕は君の話のこれっぽっちも理解できないんだ。」と訝(いぶか)しげに呟いた。
遅刻ウサギは「確かに、ボクはいろんなことを知ってるかもしれない。
 けど、わからなくってもおかしくないさ。
 例えば、キミに生まれる前のことを思い出してごらんっていったって無理な話だろ。
 いまボクが話してるのは、そういうような話なのさ。」と、応えた。
僕は、さっきから混乱していた。僕の存在はなに?、誰のために存在してる?。
そういったことが頭の中をぐるぐる巡っている。きっかけはこの遅刻うさぎの存在だ。
このウサギのロジックも存在も、ハッキリしない。知ろうと思えば思うほど、
複雑な思考スパイラルが襲ってきそう。そうだもう、考えるのはやめよう。
気がおかしくなりそうだ。でも…。
2回めの警報機がなる頃に、哲学猫は「もう一つ訊いてもいいかな」と切り出した。
「あのおばあさんは、いつか旦那様に会えるのかな。」と尋ねてみた。
遅刻ウサギは無表情に、「きっとね。でもいつになるかわからない。でもね、
 あのおばあさんにとって、紅茶を立てて、旦那さんを待っている時間が
 いちばん幸せなんだ。永遠にね。」といった。
「それにさ。ボクは、なんだかんだいっても、
 お茶会に遅刻しそうな3分前が、いちばん好きなんだ。」といった。
そして、遅刻ウサギは「ごめん。あの雲が行ってしまう前に、ボクは行かなくちゃいけない。
 キミとは何故か、また会えそうな気がするけどね。」といって、
電車が通り過ぎるのを見るやいなや、一目散にまっすぐ遮断機をくぐり抜けて、
一気に走り去ってしまった。
哲学猫も「うん、さようなら、変なウサギ。僕も帰らなくっちゃ…」っと、
すこし名残惜しそうに、ときどき、
遅刻ウサギの行ってしまった方向を振り返り、また少し歩いて、立ち止まっては振り返り、
ウロウロと、もと来た道を探りながら歩き出した。
ふっと立ち止まって見上げた場所は、
あの老婦人と遭遇した最初のお店。
その軒先の「コバタ」と書かれたはずの看板は、
いつのまにか、「たばこ」になっていた。

。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜

見慣れた街角は雨も上がって、水たまりに夕焼け雲が反射して映り込んでいる。
あの三叉路の横断歩道を渡ったところの交番の巡査は、
パトロール中らしく不在だったが、いつもの落ち着く交番の前に寝そべろうとした時、
「シュレ君、今日はここで何していたの?おまわりさんのかわりにお留守番?」と
傍にしゃがんで、頭を撫でる制服の少女はいつも「オボっ」って呼ばれてる馴染みのある顔。
哲学猫は顔を上げ、ちょっぴり甘えた声になって、その少女に「ニャー」と鳴いた。



おわり
2016年10月28日 14:20

『哲学猫の邂逅(かいこう)U』


              〜カンバスから聴こえた晩鐘〜



哲学猫の日常は不明だ。
不明というよりは気の向くまま、風まかせに過ごす浮雲だ。
哲学猫は、公園の先の川べりの、小春日和にすすきが揺れる堤防を降りた。
イーゼルを立て、折りたたみパイプのスツールに座り、
チタニウムホワイトにバーントシェンナをちょっぴり混ぜた色粉を、
少し多めのテレピン油で溶いたのを薄塗りしただけのカンバスを
じっと見つめる腰の丸い痩せた老人の足元でへ近寄り、佇んだ。
老人は、哲学猫の喉元をくすぐりながら、
「また来たのかい?だが、今日は始めたばかりの無垢だ。完成はならねーなぁ」と、
哲学猫に話しかけるというより、独り言のように呟いた。
西に陽がやや傾きかけ、川に吹き込む潮風が少し冷たくなる頃に、
老人ははじめてコンテを持ち、カンバスに向かう。
コンテをシャッシャッと擦り付けるように雑なラインで下絵を速描してゆく。
それから、フィキサチーフというスプレーをカンバスに吹き、
作業が終わると、なにもせず、目を細めながらただずっと景色を眺めてる。
この老人はこのように、昼下がりにこの場所に来てはイーゼルを立て、
絵を描きはじめている。それも1年のこの時季に数日だけだ。しかし、
その習慣を毎年繰り返している。哲学猫も、この老人と会うのは3年目。
その老人が持ち歩くカバンには、12号のカンバスが3枚と、
彼の完成させている作品が納まっていることも知っている。
この老人にとっては、その作品群は連作になっており、そして、
彼はなにを思ったかスツールから立ち上がり、
そのカバンからおもむろに完成作を抜き出し、足元に並べた。
さっきからずっと佇む哲学猫に、
「本当はな。これら以外に家に4作あるんだがな。」と言った。
哲学猫は興味深そうにそれらを眺めた。
なるほど、どの作品も構図も情景もまるで定点観測のようで、
それらは同じ作品のコピーのようにも思えた。ただひとつ変化があるとするなら、
朱赤に染めた太陽の沈み方が年々、地平に近くなっている。
「なぁ、ネコよ。俺はなぁ。ガンになっちゃってな。」と、
並べた絵を眼下に見下ろしながら、老人はまたぼそっと独り言のように呟きはじめた。
「絵をはじめる前から具合は悪かったんだがの。どうも、年取るとさ、
 割と臆病になるもんなんだよな。医者行くのが怖くてな。
 でも、いよいよ医者にかかってしまってな。」そういうと、
またスツールに腰掛け、パレットに油で溶いた絵の具を落とした。
平筆を取り、パレット上のインディゴブルーとバーミリオンを使って、
群青色とオレンジ色のコントラストな空を塗り、
それからパレットナイフでペインズグレーを削ぎ取り、
遠くの工場群の陰影を描きはじめた。
「オマエ知ってるか?あの遠くに見える工場はな。おいらがガキの頃からあったんだ。
 だが、戦争でな。B29の爆撃を受けて、一度は全部灰になっちまったんだ。」と。
「おいらのガキの頃の記憶はな。戦争一色だ。
 戦争にいい思い出はないが、でもな、そんな記憶でも、
 いまよりもきれいな夕日とかな。
 鮮やかだった景色を思いとどめておきたい気持ちってーのがあるってもんでな。」と。
それから、描かれた風景と周りの景色が同じになる頃、老人はその作品を仕上げた。
その作品は、去年のそれよりもまた太陽の位置が地平に近い。
「この太陽がすっかり沈む頃、きっとおいらもおらんよ。」と哲学猫を見下ろし、目を細めた。
やがて、木枯らしのように冷たい風が頬を撫でる頃、
老人は作品を新聞紙で包み、カバンに閉まった。そして、
一冊の画集を取り出し、あるページを捲った。そのページには『印象・日の出』
クロード・モネが1872年に描いた印象派の傑作が載っている。
「オマエは、これがわかるか?この絵が俺の先生だ。」といって、
あははと笑って、大事そうにその画集をカバンしまった。
『印象・日の出』に描かれた太陽は、朝焼けに浮かんでいるのだが、
黄昏迫る老人の心には、モネに夕日の情景を被せているのだろう。
その鮮やかなオレンジ色は。空襲で灼けてゆく工場の炎、
終戦後の焼け野原の堤防から見える夕日。
そして、徐々に地平へと傾いていく夕日の様子には、
この老人の終末までの道程なのだと。
彼は、そんな記憶の一枚一枚を切り抜き、夕日というテーマに
集約させて、カンバスに現しているのだ。
「オマエに来年もまた会えるかな…?」そういって、
老人は道具を片付け、それから白髪交じりの頭に、
ハンチング帽を目深に被り、そしてゆっくりと、
まるでその辺を散歩でもしてるような装いのままに、この堤防を後にした。

大丈夫。あなたの描いた絵の太陽と地平線にはまだまだ間がある。
きっと来年も会えるさ。と思ったかどうか…哲学猫はただ佇んだまま、
堤防を去りゆく老人の背中を黙って見送った。
そしてまもなく、この街にも冬がやってくる。



おわり
2016年10月28日 19:35:40

『哲学猫の邂逅(かいこう)V』


              〜トラとたゑの、もう一つの邂逅〜



とある国道沿いに、大正モダニズムよろしく看板建築の、
古い木造の古本屋が建っている。古本屋の看板には『是清堂』。
右隣には、古本屋の佇まいよりも若干新しい、同じく木造の不動産屋さんと、
左隣はそれよりも割りと時代の新しく重厚な整骨院が建っている。
いわば、コンビニエンスストアや、食堂などは
誰もが気軽に立ち入れる店だが、不動産屋や整骨院は、
そこに入る目的がないと立ち寄れないものである。
古本屋というのは、店主次第でそのどちらにも趣が傾く。
店先に、漫画やコミック、雑誌のバックナンバーなどがあれば、
誰でも気軽に立ち寄れそうだし、逆に、専門書や文学全集、実用書などが並べば、
入店する客が少し限定される。『是清堂』はその屋号よろしく、
ご多分に漏れず後者であり、それでも道行く客が立ち寄るとすれば、
軒先のワゴンの中に、無造作に並べられた中の『今夜の料理100選』だとか、
『医者いらずの健康法100傑』とか、
『かくして、ゲーテは日常にありき』などといった実用書だの、啓発書みたいなものに
足を止める人もたまにいるのではないかという程度のものである。
そんな佇まいな軒先でも、朝と夕方は少し事情が異なるようだ。
朝はジョギング中の中高年の方や、近くの高校の生徒たちが足を止め、また、
夕方には買い物帰りの主婦などがやはり足を止めるのだ。
とりたてて別に、朝市やワゴンセールなどがあるわけではない。
お目当ては、そのワゴンに飛び乗って、のんびり寝そべるノラ猫のトラが目当てである。
トラはもともと、トラという名前だったわけではない。
名付け親は多分、このワゴンの前に立ち止まった客の誰かだろう。
トラは、ずんぐりむっくりした風体に愛想なくしかめっ面の風貌。
客が本に手を伸ばそうとすると、尻尾がチョンチョンと動き、
まるで、立ち読みを阻む店主のはたきの動きとそっくりだ。
毛色と毛並みに至っては想像通り。そのまんまトラである。
トラがこのお店の軒先の、ワゴンの上を「定番」にしたのは、
およそ2年前くらいからである。
もとはどこかの飼い猫だったらしいのだが、
住処であったそこは、いまは別の家族が住んでおり、
トラの居場所はなくなった。トラはそれから、転々と住処を変え、
この軒先のワゴンの、ハードケースに入りっぱなしの『志賀直哉全集』の上と、
ここから1.5km先の神社のお賽銭箱の裏が定宿となった。
勿論、『是清堂』の丸メガネの初老の店主は、
どっかりと、腰も重たそうに居座るそのトラを
何度となく追い出そうとしたことはあったが、
トラはずうずうしくなおも居座る。
トラはかなりのしかめっ面だが、日がな一日、
ずっと通りを睨みつけてるわけではない。
昼中の殆どは眠り猫。だが、多少のちょっかい程度には動じない。
眠ってる表情は愛くるしく、また、その動じないふてぶてしさが
逆に人懐っこさも感じることがあるようで、いつからともなく軒先で
足を止める人も増えてきた。
トラの集客効果は、思いの外絶大で、
大して売れないだろうの在庫もちょこちょこと捌(さば)けるようにもなった。
志賀直哉先生には大変お気の毒なのだが、結局、
その全集のハードカバーの上にいぐさを編んだマットが敷かれ、
トラの安住の場所が設けられ、名実ともに招き猫の称号を手に入れた。
トラの日常といえば、朝、どこからともなくフラッとやってきては
是清堂の明り取り窓の僅かな隙間に後ろ脚を引っ掛け、蹴りつけ、
人の腰の高さに本が並ぶ、安住のワゴンに飛び乗る。
通りには早朝のランナーたちの時間がすぎれば、通勤、通学の人たちが、
足早に駅に向かう。続いて、子どもパトロールのボランティアに
守られて列を作って登校する児童たちと、
部活なのか、重たそうなスポーツバッグを背負った中学生。
その後、近隣の高校に通う高校生たちを見送ると、
トラはワゴンを飛び降り、国道から商店街の方へと足を向ける。
商店街では、殆どのお店は、開店前の仕込みの準備に追われているのだが、
そんなお店の中でも、おでん種を扱うお惣菜屋さんでおかかご飯をもらい、
夕方から開店する小料理屋の玄関先で、ニャーと鳴いては、煮干しにありつく。
パン屋の前では、パンの耳を。魚屋さんでの切り落としのおこぼれは、
滅多にないが、貰えれば最高の贅沢だ。
この町内では、トラを知らない人もあれど、
トラを邪険に扱うような人は誰もいなかった。
夕方には、昼前に通った商店街を戻り、
また『是清堂』の軒先のワゴンに飛び乗ってお昼寝をする。
午後は買い物袋を下げたお母様方に撫でられ、
昼寝の邪魔をされる毎日ではあるが、大して嫌がる素振りも見せず、
目をつむりながら顎を上げて喉元を擦れのおねだりも欠かさない。
通りを行き交うライトバンのヘッドライトが点灯する頃に、
ようやく主婦たちからも開放され、丸メガネの店主からの
日給のような差し入れを頂くと、すっとワゴンを飛び降り、
それからもう一つの塒(ねぐら)の、神社へと足を運ぶ。

神社の御神木の欅の袂(たもと)に着く頃は、
この街の喧騒も落ち着き、天頂のお月様が辺りを照らし、
欅の葉がかすかにこすれあう程度の音が聞き取れるほどの
静寂が訪れ、やがて、日付が変わろうとする頃合いに、
御神木の影からそっと姿を現す、「たゑ」という女の子と会う。
たゑはたぶん、5歳くらいで、
いつも絣(かすり)のパッチワーク風の袢纏(はんてん)に、
苔桃色のモンペを穿く。
左胸にはたゑの名前と住所が書かれた布切れが縫い付けてあった。
残念なことに、たゑのことがわかるのは、
このトラと、もう一匹、たまーに学園の方から気まぐれでやってくる
白くてちょび髭みたいな毛のあるネコくらいである。
そして、もうひとつ残念なのが、
数年前までは、割と輪郭がはっきりしていたたゑの姿も
相当、透明度が増して、姿がはっきりしなくなってきたということだ。
それでも、トラはたゑの存在を感じ、傍まで近寄り、寝そべる。
たゑは優しい顔で微笑み、そっとトラの背中を撫でた。

この神社に先に棲んでいたのは、おそらくたゑのほうが先である。
この神社も、戦後に再建されたものらしいが、
この欅は、それよりも前からずっとここに生き残っていたものである。

昭和20年の3月午前0時すぎ、十数機のB29爆撃機は、
この町の上空を掠(かす)め、何百という焼夷弾を降らせた。
木造の家屋が多かったこの町の殆どは焼き尽くされた。
たゑはおそらく、その頃に存在していた少女である。

たゑは毎晩のように、トラの背中を擦りながら、
お父ちやまやお母ちやまのお話を聞かせていた。
お父ちやまは当時、大學の先生であった。
お母ちやまは父のかつての教え子であり、
まもなくしてたゑが生まれた様子だった。
たゑは、お父ちやまとお母ちやまが結ばれたきっかけのある
大學といふ場所に行きたかった。
しかし、5才のたゑには、小さなおはじきをならべて、
数えることが精一杯の学習だった。たゑはトラの背中を撫でながら
「トラちやんもいっぱいおべんきょうしてね」と言い聞かせた。
トラは黙ったまま撫でられている。じっと目を閉じて。
その姿勢は安らかで、そして、とびきりの愛嬌をたゑに見せている。

たゑが見つめるこの町の風景は未だ、
空襲前の木造家屋がひしめいている。そして、
この欅こそ、たゑがずっと心の拠り所にしているアイコンである。
トラはこの町で、どれほどの悲しみがあったか知る術はない。
でも、たゑのひたむきに想う気持ちには自然と応えられていた。
「そろそろいかなくっちゃ。トラちやんばいばい。またあした。」そういって、
また、あの欅の木陰にそっと消えてゆくたゑを見上げ、
それからお賽銭箱の裏へ移り、眠りについた。

まもなく、新聞屋さんのオートバイの音に目が覚め、
それから、まだシャッターが閉まっている通りの、『是清堂』へ、
足を向かわせる。群青色の朝焼けの空に夕べの名残の星が幾つか輝く。
欅が見守ってきた町に、また新しい朝がやってくる。
その日、
きまぐれに、学園から足を伸ばしてやってきた哲学猫が、
赤信号の灯る横断歩道の向かい側で、
のんびり歩くトラをしばらく眺めていた。



おわり
2016年10月27日 09:51:01

『秋篠先生の場合』



クラスの夏休みボケの勢いはとまらず、
レジャーの余韻に浸り、朝から転寝をきめこむ生徒。
SNSで知り合ったカレ・カノができて、
写メやらプリクラやらを見せあい、はしゃぐ生徒
夏期講習の参加をサボって、
いまさら慌ててノートを写しまくる生徒
このように、
この時季の教室の風景は、毎年、さほど変わりがない。
すると、どこからともなく、
季節外れの心地のよい、まるで春風に似た爽やかな風と
梅の香りがふわっと辺りを漂わせ、
廊下の奥から荘厳な笙の音色、同時にカポカポと
馬の蹄に似た足音が、教室にゆっくり近づいている。
カポカポ…
近づいてる。
カポカポ…
もうすぐ15分…
カポカポ…
まだ来ない。
カポカポ…
まもなく、およそ37分。
だが2年C組の生徒たちは各々それぞれ、興味の対象は先述通り。
だれひとり、その音色と音に気がつく生徒はいない。
やっと…
左手で扉を少し開け、今度は茶道のように右掌に差し替えて
扉を開ける白い指が見えた。
この学校の卒業生でもあり、教師でもある秋篠先生の登場である。
廊下まで乗ってきた馬は、防火シャッターの引手に手綱を固定した。

やがて、音もたてずに教壇に立つと、
穏やかな声で1小節ずつ区切るように生徒たちに声をかける。

「ご学友の皆様にあられましては、

 いつまでもお戯れ召しませぬよう、

 それぞれ各々の御席にご着席願いますことを

 心より、

 お願い申し上げ

 奉ります。」

いつになく、荘厳な雰囲気。
どんな生徒も、雑談も居眠りもやめ、
ただじっと、秋篠先生の一挙一動に目を見張る。
秋篠先生のオーラは絶大だ。生徒の誰一人、
何ら意味もなくこの教師を敬いたい衝動に駆られている。

「ご起立でございます。」
秋篠先生の号令が慎ましやかにはじまる。

皆一同に起立すると、にこやかな笑顔で、
ゆっくりと生徒たち一人一人に手を振る。

「ご着席でございます。」

皆一同、黙って、着席する。
秋篠先生が、右手に軽く身近な白いチョークをもち、
黒板の方をじっと見つめ、
「では…」と発された途端、
キーーーンコーーンカーーーンコーーンの終業の鐘。
秋篠の先生何事もなかったようにチョークを教壇に置き、
そして、
「これより、朕は公務がある故
 これを持ちまして、本日の授業を
 お終いにさせていただきます。」

そのフレーズは、さっきよりわりかし早口だった。

「あ…そうそう、皆様におられましては、これまでの授業の復習を兼ね、
 明日、小テストの実施を敢行したい所存にございます。
 つきましては、皆様のご健勝とご健闘をお祈りさせて頂きます。」

「マジかよ?」生徒の一人が小声でボソッと呟く
馬が廊下で、暇に耐えられず、蹄をカチカチ鳴らしている。
「では、これにて。ごきげんよう。」
そしてまた、廊下から荘厳な笙の音色が聴こえてくると
その音色とともに、秋篠先生は教室をご退室なされた。

そしてまたカポカポと、
馬の蹄がゆっくり…ゆっくりと、梅花の残香を纏わせ、
廊下から遠ざかっていった。

なお、
ちなみに、いまだ、生徒の誰一人、
秋篠先生の板書も見たことがなく、
教科書の朗読も聞いたことがない。
まして、
秋篠先生の担当教科さえ知る人はいない。



おわり
2016年2月23日

『英語科・広能文太先生の場合』



ベンベンベンベン〜ベンベンベンベン〜
どこからともなく、重厚で特徴のあるベース音
そう、あれは、映画『仁義なき戦いの』テーマ曲。
やつだ!やつが来た!
生徒たちは恐怖に蒼ざめて震え上がった。
そこへ、ガラガラガラと、
引き戸が不気味に開かれた。

角刈りに、きちっと生え揃えた頭髪。
シワが多いが、眼光鋭く、
そして、無造作に扱う、黒い生徒名簿。

「…今日は、ぶち暑いのう。」
襟元のネクタイを緩め、目を細めながら、ゆっくり窓辺を睨む。
「おまえらにはの。なーんも責任がないがよ。じゃけん…」
生徒名簿と一緒に抱えていた、学園のネームの入った茶封筒から
どさっと、テストの答案がこぼれ落ちる。

「の?」
季節は、まだまだ残暑が厳しい夏休み明けの昼前だが、
スーッと涼しい風が、廊下側の隙間から流れ込んでくる。

「わしゃーの。こんな抜き打ちのような、人の道から外れたやりかたでの、
 おまえらを試すんはの。己の義の心が許さんのじゃ。わかるかの?」
眉間に縦皺を寄せながら、般若のごとく、生徒に凄む彼こそ…。
広能文太。中堅の高校教師。担当は英語科だ。

広能は、じっと教室を眺め、それから教壇に両手をつき、
「いまから、ひとりずつ名前を呼ぶけん。前に出てきて、テスト、持ってけ。」
「の。」
夏休み明けの抜き打ちテストが、一枚ずつ、生徒に手渡される。
青ざめ、凍りつく生徒たち。誰一人、無駄口を叩く子はいない。
手をそっと上げ「あのせ…、トイ…」まで言いかけた女子生徒。
しかし、ゆっくりと手を引っ込め、脚をもぞもぞさせている。
広能はそっちを一瞥したが、なにも聞かず、また正面を見据える。

「おまえらが聞き取れなかったとこ、復讐、もとい復習するけん。
 おまえらちゃーんと、耳ん穴カッポじって、聞けや。」
「の。」
おもむろに、テープレコーダーを取り出し、ネイティブのきれいな発音の
女性の声が再生される。
カチッと”Pause”を押し、
生徒に背を向け、黒板に、そのフレーズを書き出す広能。

「『What is your name?』
 まずこれの。正解は、”ありゃ、なにモンかいの?”
 …
 …の?」
広能がそういえば、生徒たちは黙って、帰ってきた答案用紙に
赤鉛筆または赤ペンで広能の答えを書き出す。

「じゃ、次じゃ。」
「『Where is your class?』 これはの…。」
水を打ったような静寂を醸し出す、この間が実に恐ろしい。
「”どこん組のモンかいの?”じゃの。」
広能がそういえば、生徒たちは一斉に、答案用紙に、
カリカリ、キュッキュッと赤鉛筆と赤ペンの音しか響かせない。

「次、『Who is he? Is he your brother?』 これの。」
「”兄弟はどこの筋のもんかいの?”じゃの。」
「次、『Here is good Island. you should be have a enjoy!』 これの。」
「”このシマはウチのもんじゃけん、えーようにしたらええ”じゃの。」
「んで、次の、
『Oh my god! you must be do not make the some mistake twice.』これの。
 これに至っては、だーれも、正答がなくて往生したわ。これはの。
 ”おうコラ!このおとしまえどうつけてくれんのじゃ?
 2度はねーぞ、わかっとるんか!このボンクラ!”じゃの。」
教室の静寂を広能が切り裂く。男子生徒も一部は脚を震わせ、
さっきのトイレを我慢していた女子生徒に至っては、言わずもがなである。

「で、今日の最後じゃが、
『Would you have a drink with me?』これの。
正解は、”あんたと盃を交わそうと思うんじゃがの。”だの。」

こうしてひととおり、テストの回答を黒板に書き出し終わると、
ちょうどよく、終業の鐘が響いた。
「次は、『太郎、芋を引く』のとこじゃけん、
ちゃーんと予習しとかんと、弾はまだ残っちゃるがの。」
そう言い残して、広能は弾に見立てたチョークをピーンと弾き、
この教室を出ていった。

夕暮れ、
広能は正門の守衛に
「1968年の広島に戻るきに。お願いします。」
と言い直角に頭を下げた。
袖を通さず肩に掛けたジャケットを翻し、
校舎を眩し気な目で仰ぎ見た。
そして、 「教員免許ぐらい、もっときゃよかったの。兄貴。」
と、ジャケットの内ポケットから、
広能の兄貴分の”梅宮辰吉”の顔写真をそっと取り出して
渋い顔をさせ、同時に、角ばった薄茶色の金縁のサングラスをして
まっすぐ帰っていった。



おわり
2015年8月6日 08:24:01

『生物科・蓑次葵先生の場合』



生物科の蓑継葵(みのつぎあおい)先生は、いつも、
アイロンで襟をピリッとさせて、凛とした女史だ。
高身長でスレンダーで、小股が切れ上がって、
彼女が颯爽と廊下を歩くと、その姿は、宝塚の男役を彷彿させる。
それに、ほとんどすっぴんで欲張った化粧もなく、さらに、
前髪をアップにし、後ろ髪もサッっとお団子にしてまとめ、
軽くリボンで止めている感じも、彼女の如才のなさを印象づけている。
始業のベルが鳴り、彼女が教室のドアを開ける。
生徒は一斉に起立し、「双子葉類、子葉は2枚。単子葉類、
 子葉は1枚。網状脈、平行脈、師管、道管、維管束!」
と、声を出す。先週の授業の内容の復唱だ。
それから、彼女の「着席。」の号令で速やかに着席する生徒たち。
「今日は全員、外に出てもらいます!」
先生がそういうと、少し教室がざわめいた。
「では、全員、白衣を着て校庭に集合。」
そういって、先に先生は教室を出ていった。
無論、生物や地学など、理科の授業で校外学習というのは、
それほど珍しいことではない。
観察する、触れてみる。これら知覚に対応させて学習することが、
理科の課題の理解には必要なことだ。
例えば、その辺に転がっている小石ひとつを拾ってみても、科学の目で見れば、
それが、火成岩由来なのか、堆積岩由来なのか、変成岩由来なのかなどと考えると、
研究の対象になる。その小石が仮に、火成岩由来であれば、たとえ、
その周辺に火山らしきものがなくても、何億何万年前に火山によって、
組成された場所であるかもしれない。
もしくは、その小石が地表に現れた堆積岩だったとしても、
火成岩由来か、それとも、太古の海底で組成されたサンゴや放散虫などの
生物岩由来でも、その周辺のもともとの土壌を知る手がかりになるかもしれない。
また、その小石が変成岩由来であれば、もしかしたら、
近辺に実は地殻プレートがあって、断層が見られる場所かもしれない。
もしくは、地震が起こりやすい土地かもしれいない。
このように、ともすれば見逃してしまうようなもの、
普遍的で、特別珍しいことではないことにも、注意深く目を向けさせること。
水、空気、それから雷の発生の機序や、または常に変化する気候など、
それら自然から学ぶものが実に多い。ひとつの小石から地殻の構造まで関心が及ぶこと、
そのような想像力を働かせるのも、たぶん理科を知る意義なのかもしれない。
しかし、いまどきの生徒には、理科が苦手科目と挙げるケースは少なくない。
たしかにいきなり元素の周期表とか、化学式や構造式など記号論化されたものに触れれば、
もう机上で理解するものとなってしまう。
実験などのフィードバックが直接に、化学の単元とつながってこないということもあるようだ。
例えば、マグネシウムを燃焼させる、酸化マグネシウムの実験を行ったとして、
リボン状に細かくしたマグネシウムが(きら)めいて燃える状態と、
"2Mg+O2→2MgO"という式に直接つながってイメージしにくいという状況だ。
その程度のことと思われるかもしれないが、その程度の単純な式でさえ、
生徒は簡単に(つまず)いてしまうものだ。
金属が燃えることと、金属が酸化することがうまくつながらないのが、
興味を()ぐきっかけでもあるし、理論と実践が対にならない
致命的な学習効果にもなってしまう。それでもついてゆけない生徒は無視して、淡々と、
酸化しやすい金属の元素と化学式を板書してゆく指導者もいる。このような状態が続けば、
理科の苦手意識を克服できない生徒が右肩上がりで増えていくだろう。
そのときは、生徒の興味の持つ方に話を進めていく必要もある。
或る先生はここで花火の話題を持ち出す。
燃えやすい(酸化しやすい)金属が、花火の発色を決め、また、どのような明るさで
見せることができるかなどの話にすれば、生徒は大体、興味を持ってくれる。
花火は、花火に含まれる火薬と金属の配合と、炎色反応のタイミングなどによって、
主に、赤・緑・黄色・青・白の発色と組み合わせができる。
青色は酸化銅、白色はアルミニウムといった具合だ。またそれぞれに触媒として、
マグネシウムなども用いられる場合もある。そういった説明が、きれいな花火に
仕掛けられている発色の不思議に対して答えることにもなるし、またそのように
化学の反応を利用した職人の智恵と伝統が、科学の面白さにつながっていくこともある。
すなわち、指導者の臨機応変な発想の転換、パラダイムシフトが必要な場合もある。
それが授業だ。
ところで、蓑次先生は理科の教科担当だが、地学や化学を直接に生徒に教えることはない。
彼女は生物、主に昆虫学を専門としている。
生徒たちは、蓑次先生をファーブル先生と呼ぶこともある。
彼女のライフワークのような主たる研究の”昆虫”に明るいということもあるが、
蓑次(ミのつぎ)はファで、葵は青いにしてブルーにすれば、ファ・ブルーとも読めると、
ある生徒が気がついたこともある。
彼女自身、ファーブル先生と呼ばれることが、気に入っているのかどうかはわからないが、
呼ばれて、あまり曇った顔を見せたことがない。
さて、校庭に集まった生徒たちを整列させると、
彼女たち一行は隣の公園まで揃って歩くことにした。
平日の白昼、眩しい白衣の一行がぞろぞろと歩いている姿は結構、異様だ。
犬の散歩をさせている婦人はもとより、大体の通行人はかならず振り返っては
怪訝そうな顔を浮かべている。
タクシーの運転手に至っては、わざわざ車を止め、窓を開けて、
何事かと様子をじっと眺めている。
通報でもあったのか、交番から警らのおまわりさんが駆けつけてきた。
まもなくして、蓑次先生は警官に呼び止められてしまった。
授業で公園に向かうところだと、彼女は淡々と説明をした。警官は、昨今に関心が挙がる
バイオテロなどを心配したらしい。バイオテロほどに物騒ではないが、
住宅地の白衣集団は、"白衣テロ"ともいえるくらい、なかなかものものしい。
彼女と一行は、蓑次先生の詳細な説明を受けた警官に先導されつつ、
なんとか公園に辿り着いた。
蓑次先生は授業前から、公園に先回りして、公園の駐車場に車を止めて置いていた。
そして蓑次先生は、その車の中に置いてある観察道具?を運ぶのを手伝ってと、
何人かの生徒に声をかけた。
ここに来て、生徒の一部は、公園と観察で察しがついたようだ。
今日の授業が蓑次先生のフィールドワークなら、きっと昆虫の観察と採集だ。
そこで、たぶんに昆虫の授業だと気が付き、男子群は童心に帰ってはしゃぎだし、
昆虫が苦手な子の多い女子は、困惑そうな表情を浮かべてどよめいた。
そこへ、ほどなくして、たっぷりの荷物を抱えた生徒が数人戻ってきた。
生徒たちは、捕虫網とか虫かごとか、拡大鏡とか、
そのような観察セットを期待していたようだったが、重そうな段ボール箱を数個、
それぞれふたりがかりで慎重に運んでくる。
生徒のひとりが蓑次先生に「箱の中身はなんですか」と伺う。
彼女は「あれはひとりひとりに手渡すVRシステムですよ」といった。
「VRシステム???」またまた生徒たちからどよめきが起こった。
VRシステムとは、そのまんま"Virtual Reality"の略である。
先立って大手ゲーム機メーカーが一般向けに市販を開始した
次世代のアミューズメントツールでもある。
それは、予めパソコンなどにプログラミングされている、
仮想現実空間のアーキテクト(構成)を映像化し、
それらをユーザーの視覚へ、直接映し出すことができるヘッドマウントディスプレイまでを
VRシステムという。そのヘッドマウントディスプレイが、各生徒に配られた。
VRをつかう授業なら、なにも校外まで繰り出す必要はない。
しかし、蓑次先生の指導方針には、”より知覚で生物を理解する”
という指導目的を掲げている。そして、
「いま配ったVRシステムを通して、予めプログラムしておいた、昆虫の情報を送信します。」
と切り出す。
「捕虫網とか、拡大鏡とか思っていたでしょ?。しかし、あなた方は
 小学校の児童ではないので、そんな単純な授業は行いません。
 なお、プログラムはおおよそ30種の昆虫の情報を割り当てました。
 それらはランダムに、あなた方ひとりひとりのVR映像として送信します。
 だれがどの昆虫になるかわかりません。
 あなた方はこれから30分程度、おのおのに割り当てられた昆虫になって、
 この公園で自由にしてみてください。
 教室に戻ったら、それぞれ、どの昆虫になったか、
 どんなことがあったかなど克明に記録していただきます。」と、蓑次先生は言った。
つまり、各生徒は、そのVRシステムと呼ばれる、ヘッドマウントディスプレイを装着し、
先生がパソコンからランダムに送信する昆虫情報を彼らに送信、
そして、彼らがその中のなんらかの昆虫になりきって、この公園で30分程度”生活する”
という内容の授業であるらしい。
彼ら生徒たちは、狐につままれたような困惑した表情を浮かべながら、
ヘッドマウントディスプレイを装着し始めた。
彼女はタブレットパソコンを指でフリックして、彼らにプログラムの送信を開始した。
しかし客観的に見れば、その光景はますます異様だ。
白衣を着た生徒たちが、各々全員、ヘッドマウントディスプレイを着け、
その姿である生徒は寝っ転がったままごろごろ動き、ある生徒は全力で走り回り、
ある生徒は暗い場所を求めさまよったり、ある生徒は奇声をあげている。
さっきから、一部始終の様子を眺めていた警官も神妙な顔をして、
腕を組みながら絶えず見守っている。
公園脇の側道を自転車で通りがかった人が、
その自転車を止め、植え込みの影からスマホを構えている。
この様子のすべての事情を知っている警官が慌てて駆け寄り、
スマホでの撮影を止めに入る。
いま公園で、白衣を着てヘッドマウントディスプレイをして
無邪気に自由に動き回る生徒たちは、決して、
アバンギャルドな舞踏集団のパフォーマンスを披露しているわけではない。
ただの授業の1コマなのだ。
そして、30分の彼らの"校外学習"は無事に終了した。

生徒たちが学校に戻り、教室でVRシステムを使った今回の授業についての
プリントが配られていた。こころなしか、生徒のひとりひとり、
あまり楽しかったという表情は伺えない。
昆虫採集とはしゃいだ男子生徒も神妙な顔をしているし、
泣き出しそうな女子生徒もちらほらと見られる。
そして、終業のベルとともに、プリントが回収された。
蓑次先生は、職員室に戻り、静かにひとりひとりの
生徒たちのプリントの評価をはじめていた。
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【竹本健太: 担当昆虫(ノコギリクワガタ)
感想】: はじめは、めっちゃ好きなクワガタになれて、マジラッキーと思った。
 とにかく、どこか木のあるとこに飛んで行きたかった。
 樹液の溢れてる木を探して飛びまくった。1箇所そんなラッキーな場所があった。
 なんか、セミに小便をかけられたりしたが、しっかり木の皮にしがみついた。
 まもなく蜜が啜れると思った時、いきなり目の前が真っ白になった。
 オレは地面に叩きつけられひっくり返った。なにが起こったかわからない。
 生暖かい柔らかい何かに背中を掴まれた。そして、透明なのに
 ぶつかる。透明なのに脚が滑る変な場所に閉じ込められた。
 なんか無性に虚しい。そしたら画面が真っ暗になって貴方の課題が終了しましたと
 音声が流れた。なんかバッドエンドなゲームオーバーの気分だ。リベンジしたい!
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【水沢愛菜: 担当昆虫(ナミテントウムシ)
感想】: 私はめっちゃ虫が苦手で、こんな授業受けたくないと思いました。
 でも、その中でもなんとか、さわれそうなテントウムシだったので、内心ホッとしました。
 とりあえず、どこに飛び出そうか迷いました。
 菜の花が見えたので、あそこで休もうと思いました。
 葉陰は涼しくて、最初、居心地はよかったのですが、茎の上に登っていくうちに、
 なんだかわらわら緑色のちっこい虫に囲まれました。どうにもキモくて
 邪魔で、もたもたしていたら、後ろからめっちゃでっかいアリがやってきて、
 私のお尻をつついて来ました。やたらしつこいしエッチだし、だんだんムカついてきました。
 でも緑色の変な虫に阻まれて、なかなかアリのセクハラから逃れられませんでした。
 そしたらいきなり画面が暗くなりました。なんかいやな気分のままで課題が
 終わった気がして落ち着かないです。またチャレンジしたいです。
(注: 彼女が見た緑色のキモい虫とはおそらくアブラムシのことであり、
 アブラムシとアリは共生関係なのだが、テントウムシはアブラムシを捕食するため、
 アリがアブラムシを助けるためにテントウムシを攻撃するという内容である。)

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【上村はるか: 担当昆虫(コガネグモ)
感想】: 私、マジで虫大っ嫌いです。でもって、
 厳密にいえば昆虫ではないのに関わらず、いちばん苦手なクモにあたるなんて
 正直へこみまくりです。もう適当やってサボろうと思って、
 どこか適当な木によじ登って、糸を張ってぶらーんとしてました。
 そよ風でも、糸がハンモックみたいに揺れて気持ちがいいんですけど、どうにも退屈でした。
 退屈だけど眺めはよくて、パノラマな視界みたいだけど、もうちょっと色がついてほしいかな。
 風まかせにぼんやりしていたら、気がつけばブラックアウト、そのまんま終了したみたいです。
 ちょっと意味がわかりませんでした。できれば今度は他のなんかになりたいです。
(注: クモには積極的に捕食する徘徊型と、糸で造網して受身的に捕食する占座(せんざ)型に分けられる。
 コガネグモは造網性の占座型なので、餌となる虫が網に掛かるまでは常に絶食状態である。
 ちなみにコガネグモの目は2列8眼、可視光線は紫外線を感受している。)

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【飯島壮亮そうすけ: 担当昆虫(ショウリョウバッタ)】
感想】: 今回の授業、オレはすげー興奮した。
 VRで昆虫になるとか、スゲー発想!さすがファーブルやることがやべぇ。
 それもバッタだ!オレは当たりだと思った。欲をいえばトノサマバッタのほうがかっけー。
 でもバッタって、英語でいうと、Grasshopper(グラスホッパー)だろ?
 つまりさ、茂みを踏み台に飛び回る奴ってことじゃん?
 この際、飛びまくってやろうと思ったんだけどさ、
 なんか羽に絡みつくのがいるんだよね。振り向いたら、
 しっかりカマキリに胸と後ろ羽を抑え込まれてやんの。
 それも無数のカマキリにだ!1匹でもラスボスなのに、
 半端ない数で寄ってきやがった。
 実際、これから暴れまくろうとしたのに、くっそムカつく!
 VRごと放りだしてやろうかと思ったけど、これハンパなく高いんだよね。
 あとで弁償とかやべーから、おとなしくゲームオーバー迎えてやったよ!
 おいファーブル!次オレにカマキリやらせろ!
(注: バッタは複眼であり、このプログラムには、割りと近似にあるものは
 複数に見えるレンズの効果をシミュレーションしているようだ。)

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【早乙女あかり: 担当昆虫(ミンミンゼミ)
感想】: なんかずっと画面が真っ暗でした。私のだけバグかなとか思いました。
 みんなの声がかすかに聞こえているだけでした。
 そしたら、突然光が差して、その方向に歩いてみたら、
 なんかおっきな木の幹にいました。とりあえず登ってみました。
 大きな顎をつけたクワガタムシがいました。
 なんか尖った顎が怖かったので大きく迂回して、その先へ登ってゆきました。
 鳴き始めたら気持ちがスッキリしてきました。
 でも、すぐに白いもの?多分、捕虫網みたいな
 のに私はさらわれました。だけど、
 一緒にさらわれたクワガタムシのほうがお気に入りだったらしく、
 私は放り出されました。ちょっと虚しかったです。
 あと、ゲームオーバーがくるまえにゲームオーバーになりました。
 なんでしょう、バグですか?なんかセミはもういいです。
 アゲハチョウとかないんですか?今度お願いします。
(注: 地上に出てきたセミは想像以上に短命である。)
------------------------
…などなど。
生徒たちの否定的な感想、肯定的な感想それぞれに、注意深く目を通しながら、
ふむふむなるほどと、彼女にとっては目論み通りの結果だった。
(なんだかんだいって、生徒たち、意外にノる気でやんの。)とひとり、
赤ペンでそれぞれのプリントに採点がわりのコメントを書き込みながら、
ほくそ笑む蓑次女史だった。



おわり
2017年9月3日 12:38:40

『夕暮れの花壇』
              著:N.Mako




いつからだろう。
影の長さが一定の距離のまま、伸びる事も縮まる事もないまま、
また闇に包まれて消える事もなくなったのは… ふと、
ここに来る前の記憶が甦りそうになると決まってチャイムが鳴り、
現実へと引き戻される。

呟きながら空を見上げたのは中学一年生のセイ。
担任に怒られて、夕暮れの花壇の脇に腰を下ろし、
赤く染まる夕日を背中に受け、
地面の蟻を見つめるルーティーンを課せられている。

セイは大人になりたかった。
理不尽な担任の叱責を思い出す度に、その思いは募る。
行き場のないむしゃくしゃした気持ちを向けるかのように、
花壇の花に手を伸ばしては花を折って行った。

気が付くとセイの回りには一面、
彼の手によって千切られた花が横たわっている。
だが、無機質になっている彼の心には、
それはなんでもない光景だった。

ふと他人の気配を感じて見上げると、
見たこともないサラリーマン風の男が立っている。
手にはカバンを持ち、細身を思わせる体型には合っていない、
ブカブカのスーツを着ている。
ぎょろぎょろした目をセイに向けて、彼は訊ねた。

「君は大人になりたいんだね?」
腰を折り、セイの顔を覗き込むように彼は言った。

「おじさん、誰?」
覗き込まれた瞳は、まばたきもしないで真っ直ぐに
サラリーマンを見つめ返している。

「おじさんの…名前かい?」
しばらく考え込むような素振りをした後、彼は答えた。
「カンナだよ」

「ふーん…」セイが聞きたかったのは
少なくとも名前ではなかったけど、
もういいやとばかりに校舎に戻ろうと歩き始めたその身体は、
カンナに手を握られて引き戻された。
そして彼に触れられたセイの身体は…みるみる大きくなっていく。

「早く!早く服を脱ぎなさい!」
急かしたてられるように服を脱ぐセイ。
校舎の窓には大人…
いや、おじさんになった自分の姿が映っている。
「さぁ、これを着なさい」
カンナは自分のスーツを脱いでセイに手渡した。

呆然としながらスーツを脱ぐカンナを見つめるセイ。
脱ぎ終えた後の彼の身体は、想像以上に細く、
瀕死のヌーのようだった。

泣きながらも、裸ではいられないセイは身体にスーツを通す。
「思った以上にぴったりだよ。願いが叶っただろう」
低い声でカンナは呟く。

「いやだ!いやだよおじさん!元の身体に戻してくれよ!」
殴りかかる勢いで彼に向けられた四肢は空を切る。

そして突然カンナは──…自らの頭部をもぎとり、
セイの顔の前に差し出してみせた。

カンナの頭部が両掌の淡々と喋る。
「一度切られた花がもう戻らないように君も戻らない。
 分かるね?」

言い終えると、そのまま倒れ込んだカンナは…
散乱している花と茎に紛れてしまった。

残されたセイは呆然と座り込んだ。

普遍的だった、彼の影の長さが、少し伸びていた。



fin
2016年10月26日 21:06:02

『淋しい戯画』




『もしも目で見えるものが全てならば、
 この世界はあまりにも小さすぎる』
                  劇作家サバス・ブンゼン(1672年)

これから始めるお話しは虚構であり、実在する人団体とは一切無縁です。
物語はチャットにまつわるお話しです。
そこでおさらいの意味も込めてコピーした文章を
そのまま貼り付けることにします。

【チャット(chat)とは、インターネットを含むコンピュータネットワーク上の
 データ通信回線を利用したリアルタイムコミュニケーションのこと。
 chatは英語での雑談のことであり、ネットワーク上のチャットも
 雑談同様に会話を楽しむための手段である】

『PARC』というアダルト専用のチャットサイトができてからもう何年経つだろう。
そこには匿名のユーザーたちが立ち上げた何万という部屋が存在し、
やはり匿名の人々がそこを訪れ会話を楽しんでいる。
『PARC』は、フランス語で公園のことだ。その名の通り、
不特定多数の人がそこを訪れ、或る者は性癖が合う人を探し求め、
或る者は趣味が合う者を求め、また或る者は恋や友情を求め、公園を彷徨うわけだ。
勿論、匿名のアダルトサイトであるから、内容はエロティックなものか多かった。
9割方は匿名の仮面を被り、自己解放することが目的なのだろう。
成人同士、法に背かぬ限りはなんでもござれだ。

この物語の主人公、島田俊哉もぼんやりとした好奇心で
各々の部屋の扉の文言を読んでは、心の中でツッコミを入れて笑っていた。
仲間になるつもりは毛頭なかった。
コンビニに置てある三流雑誌の表紙を
見ているような気分とでも言えば良いのたろうか。
おおよそは流し読みなのたがいくつか目を引く扉があった。
この扉の文句を考えた人間はどんな人物なのたらろう?興味を惹かれた。
その風変わりな部屋の名前は『淋しい戯画』とあった。
何やらメランコリックな名前の部屋だが、いつも皆が笑ってるように見えた。
アットホームでウェルカムな雰囲気が漂っていた。
誰の容貌も、素性もわからない。
わかるのは、言葉の狭間に垣間見える心だけだ。
島田は、行きと帰りの通勤時間中にぼんやりと
その部屋を眺めていることが多かった。
特に、文学やら絵画やら音楽やらの話しが出てくると、
今すぐにでも話の輪の中に入りたい衝動に駆られた。

島田自身もジャズが好きで、若かりし頃写真家になることを夢見ていた。
アートは表現形態を違えてもみんな繋がっている。
それが島田の持論であるから、どの話題も心惹かれるものがあったのだ。
そして、或る日の事だ。
とうとう我慢出来なくなった彼は、咄嗟に浮かんだ『完智』というハンドルネームで、
誰もいない部屋に入り込んで「こんばんは、はじめまして。よろしくお願いします。」
と挨拶を書き込み、YouTubeからソニー・クラークの
『クールストラッティン』をコピーして貼り付けて去った。
果たして、夜中に部屋を覗いてみると、
ソニークラークを知らない大学生が「初めて聴きました!かっこいいです!」と
感想を書いてくれていた。これにすっかり気を良くした島田は、
それからというもの必ず会社帰りに、通ならではのシブい一曲を部屋に貼りつけ、
ささやかな寸評も挟むようになった。
そのまったく無駄のないログを見た常連たちから、
彼はジャズが好きなダンディな男。そう思われた。しかし、
来るのは決まって電車の中からなので、誰かが冗談で
「実はチカンが本業なのでは?」と、からかった。
これには最初はなんという屈辱だろうと一人苦笑いしたが、やがて、
登場するだけでウケるので、本人も満更ではなくなり、
そのキャラクター設定に甘んじることとなった。

本当の島田は40代半ばで、当たり前だが痴漢ではなく、
大手出版社の社員で課長職だが、その正義感故に、
社内では派閥からも出世争いからも外れ、孤高の人と言われていた。
でも、孤高の人と言われているからといって、
孤立しているかと言うと決してそのようなことはなく、
人望は厚く彼を慕う若手社員は多かった。
彼は前述の通り、 若かりし頃、写真家になることを夢見ていた。
師弟関係を結んだプロの写真家からも将来を期待されていた。
しかし、学生時代からつきあってきた後輩の「まどか」との
現実的な将来を考えると、夢を追うリスクはあまりに高すぎた。
そこで就職することに決めたのだ。 何度も迷った結果、
例え末端でもいい、創作に纏わる場所にいたいと思い、
出版の世界に身を投じたのだった。
勿論、心の底に夢をしまい込んでしまうことには
多少なりとも淋しさがあった。だが、島田は己の夢よりも、
まどかへの愛を選択した。そして、それに一分の悔いもなかった。
所帯を持ってみると、島田も妻のまどかも双方の両親と仲が良く、
家庭は円満であった。
27歳の時に初めての子宝にも恵まれ、夢よりもまどかを愛し、
穏やかな家庭が築けたことに対して幸福を感じていた。

だが、5年後。娘は不慮の事故でその短い人生に呆気なく
幕を閉じることになってしまった。 本来ならば、
この悲劇を夫婦ふたりで乗り越えなければいけない。
頭では理解していた。だが、島田も妻のまどかも、
その心根の優しさゆえに、繊細さゆえに、些細な言葉のあやで、
気持ちがすれ違うことが多くなった。

自分がもしも独身のまま夢を追い続けていたら、
妻にこのような悲しみを与えることはなかったのではないか?
そのような誤った思いに苛まれる夜が幾夜もあった。
彼は彼で、妻は妻で、自身を責め続ける日々が続いた。

お読みいただいている方の中には、
そんな苦悩の最中にアダルトサイトなど覗くものかと
眉をひそめる向きもおありかと思う。しかし、
それは抑欝状態から賭け事や酒に救いを求めるのと大差はない。
人は実に情けない生き物なのだ。
まったくもって不謹慎極まりない不名誉な通り名だが、
『最凶線のチカンの完智』はこうして誕生したのだった。
元々は明るい性格で、
笑うのも笑わせるのも好きな島田であったが、
時折り完智(つまり自分のことなのだか)のプロフィールを尋ねられて
心曇ることもあった。しかし、全て笑いで返そうと思った。
美人すぎる妻と、超絶美少女の15歳の娘がいて、
妻子から虐待されているとウケ狙いの嘘をついた。
嘘をついているうちに、本当にいなくなってしまった娘が、
今も生きていて成長しているような錯覚に陥ることもあった。
そしていつしか、その、誰も欺かず誰も傷つけない小さな嘘を
島田は愛しはじめていた。 おかしな話しだが、
妻のまどかもこの部屋に誘いたいとさえ、思うことすらあった。

『淋しい戯画』の部屋主は、
どうやら島田より一回り以上歳下のようなのだが、処々で、
60代を越えるようなとんでもなく
古めかしい言い回しをする不思議な女だった。
60代?もしや70代かと思うと、小学生以下の無知をさらけ出して、
笑わせているというよりは笑われていた。
一度、二人きりの時に、この部屋主に、
何故部屋の名前が『淋しい戯画』なのか尋ねた事があった。
すると、部屋主から「戯画は落書きのことでね、
人生は壁に描いたデッサンの足りない淋しい落書きみたいだと思って
付けたのさ!ヒーッヒッヒッヒッ(。Д。)」と、
何処まで本音なのかわからない言葉が返ってきた。
言われてみれば、その部屋に集まる者達は、
誰もが個性的でひょうきん者であったが、
そんな脳天気に見える常連たちの中にも、
孤独や苦悩やもの寂しさや切なさが、
まるで地下水路のように目には触れない場所を、
止まることなく流れ続けているのだろうことが想像できた。
ただその水路が何処に続いているのかわからない。
島田は、いつものように部屋に入室する。
常連たちから
「相変わらず洗濯物は奥さんや娘さんと分けられるてるかーい?」と
挨拶なしで茶化される。
別の誰かが「生意気な娘に天誅だ!パンツ一緒に洗ってやれ!」と野次られた。
だんだんと帰りの電車内で吹き出すことも増えてきた。

そんなことを子供じみた会話のやり取りを繰り返しているうちに、
やがて、島田の表情は変わっていった。
島田のささやかな変化に添うように妻のまどかも少しづつ変わってきていた。
「人生はあらかじめつまらない」
『淋しい戯画』の部屋主は口癖のように、その言葉を呟いていた。
それをニヒリズムと捉える者もいた。
しかし、それはニヒリズムではないと島田は思った。

三月半ば過ぎ、二人は、いるはずのない娘のために、
島田の妻、まどかの卒業した女子高の制服を買った。
そして、そのまっさらな制服をクローゼットの扉に下げた。
その真新しい制服を見つめながら二人は静かに抱き合った。
制服を見つめたまま島田はまどかに優しく声をかけた。
「なぁ?忘れることは無理だと思わないか?どう考えても無理だよ。
 君も俺も傷ついたなぁ。でもさ、痛みから目を逸らさず、
 その痛みと共に俺達も成長しよう?
 あの子が望むような大人になろう。俺はいいパパになるよ。」
「たしかに(娘の)理沙はいなくなってしまったけどさ、
 こんなに毎日娘のことを考えてる親がいるっ!?
 今さ、本当に子育てをしている親でさ、隣の斉藤さんでもいいよ!
 俺たちより眠る時間以外子供のことを考えていた親はいないだろう!?」
「俺と君は……………最高のパパとママだ!」
島田に強く抱きしめられて、妻のまどかは声を上げて赤子のように泣いた。
大粒の涙がとめどなく流れて止まらなかった。
しかし、それは悲しみの涙ではなく、
初めて解放されたような喜びの涙であった。
春も盛り、青葉が輝く頃。島田は妻のまどかを伴って
『淋しい戯画』を訪れた。夫婦二人で笑いながら、
アダルトサイトでチャットをするという革命的な行為は
みんなから大いにウケた。
そして、翌年のある日。
早朝の『淋しい戯画』に短いログが刻まれた。
「次女が生まれました?完智&Honey」
「『完』は『未完』の『完』」



おしまい。
2017年8月11日 12:43:49

『バンドの物語』(キャスト紹介)



海辺之美少女倶楽部
キーボードの米倉夢路とベースの藤井彩音とギターの細田玲奈が中等部にいた頃、
結成したオリジナル中心のスリーピースバンド。
看板に偽り有りで、とびきりの美少女はいないが、
名前で誤解した男子が殺到すると企んで付けられた名前だ!
------------------------
宮原 柚 高1 海辺之美少女倶楽部作詞作曲ギター担当。
  好奇心旺盛で休み時間は元気なのに、授業中は照れ屋大人しい突拍子もなくおかしな子。
米倉夢路 高1 海辺之美少女倶楽部作詞作曲ピアノ担当。
  スレンダーでおっとりしたメガネっ子。メガネを外すと美人という設定だが外さない。
藤井彩音 高1 海辺之美少女倶楽部作詞作曲ベース担当。
  ぽっちゃりとデブチンの境界線にいるさっぱりした老舗旅館の女将みたいな子。
  たぶん痩せたら可愛いかも。
細田玲奈 高1 JPOPやJROCKのコピーが主体の、
  ガールズバンドBITTERPEACHのリードギター担当。(元海辺之美少女倶楽部)
  垂れ目で優しそうなのに、チクチクと時々皮肉っぽいことを言うけど根はいい子。
仁科禎介 高3 演劇部部長。
  背が高くて賢くて、クールに見えるのに優しいというまるでアニメに出てくるような先輩。
井上信如 高3 SECONDHANDSエレクトリックギター担当。
  1969年から海辺之学園にタイムワープ通学中。
  ハードロックバンドのギター担当、寡黙で怪しげで、髪が腰まで伸びている。
  (第3話は66歳になり、嘗ては長髪だったが、今はロマンスグレーで怪しげな顔の紳士。)
佐久間冬樹 高3 SECONDHANDSドラムス担当。
  1969年から海辺之学園にタイムワープ通学中。
  ハードロックバンドのドラマー。
  苦労性で困ったような笑顔で、超ロングなカーリーヘアー。
  (第3話は66歳になり、現在はかなり頭髪が薄い。)
琴音さん (30〜31歳) カフェCOTTONのママ。
  常に左右のコメカミにトクホンを貼っている、
  女給さんのコスチュームが好きな義理と人情に厚い絶世の美女。
  皆から「やりてババア」とか「イカズゴケ」と呼ばれている。
ホッピー小川 高3 軽音部部長。
  ディスコミュージック好きなのに、音楽と無縁に服装は、
  ヒッピー文化の影響を受けていて、千葉の長生郡の山中で、
  マリファナ畑を作っているという噂が。
セルマーさん (70代) COTTONの常連。
  今は警備のアルバイト。
  嘗てはプロのサキスフォン奏者でオーケストラの中にいらっしゃったお方。
向谷 尚 (36〜37歳) 音楽教室のギター講師。
  スパニッシュギターの名手。
  温厚で穏やかなCOTTONの常連さん。いつも謙虚で前向きなお方。

『バンドの物語』(第1話)



中学3年の3学期も終わろうかという或る日の海辺之学園の放課後。
教室に忘れ物を取りに来た宮原柚は、ロッカーの前に置かれた
キャンディレッドのドラムセットを見て放心状態になった。
(うっわっ!綺麗だなぁ〜) 恐る恐る近づいてしげしげと見つめ、
振り返って人がいないか確かめた。
シンバルに『Zildjian』という文字がある。
「(ジル…ドジャーン?)プッ!(なわけないか、なんて読むんだろ?)ドジャーン!」
なんにも考えず、人差し指でコンと叩いてみた。
(おおお!音がした)当たり前だ。

そして音を止めるために慌ててシンバルを指でつまんだ。
すると背後からいきなり「何してんのよぉ?」と不機嫌そうな声がした。
大野絵梨だ。大野絵梨は背が高くて大人びた雰囲気なので、
まるでOLみたいだ。だから、オオノエリが転じて
みんなから陰でOLと呼ばれていた。
柚が「ごめんよー」と両手を合わせて祈りのポーズをすると、
絵梨は苦笑いしながら「子供のオモチャじゃないんだからねっ」
とたしなめるような言い方をした。
(同級生なんだからあんただって子供じゃん!)と内心思ったけれど、
もう一度謝った。絵梨は、短気だけれど気がいいほうなので
「シンバルは指で触れると錆びるんだよぉ」と
子供を叱った後のお母さんみたいにもう笑っていた。
「さぁ、これから練習するんだから子供は帰った帰った」
(あんたも子供でしょ!)と思ったが「うん。ほいじゃね!」と
愛想良く手を振って教室を後にした。

大野絵梨は他のクラスの目立つ子ばかり集めて
5人でガールズバンドを組んでいてメンバー全員が
キャンディレッドの楽器を持っていた。
柚は個人的には絵梨たちのメンバーそれぞれと仲が良いけれど、
なんだかバンドをしている人が苦手だった。
(なんか、すかしてる感じ〜。)そんな偏見があったのだ。

海辺之学園は自由な校風なので、バンド活動にいそしむ生徒達も多かった。
勿論、ほとんどがコピーバンドなのだが、
たった一組だけ、オリジナル曲を持っているスリーピースバンドがあった。
海辺之美少女倶楽部というバンド名で、看板に偽りありで美少女はいなかった。
名前に『美少女』と入れれば勘違いした他校の男子が
押し寄せると思ったらしい(笑) それが正門前で手を振っている3人だ。
「おーい、ミーヤー!お財布あったぁ〜?」
「記憶力ないのかよっ!?」
「首にぶらさげときなさいよ!」
みんな呆れて怒り顔だ。
ぽっちゃりと言うより、もう、これはデブちんじゃないの!?
というくらいふくよかなベースの藤井彩音。
メガネをかけてスレンダーで、おっとりしているというより、
もう惚けてない?というくらいのんびりした感じのキーボード米倉夢路。
見ようによっては美少女に見えるような気がする、
垂れ目で優しそうなのに根がクールなギターの細田玲奈だ。

最初に言った通り、柚はバンドをやっている連中が苦手だった。
でも、この3人はそもそも音楽をやっているとは思わなかった。
中1からの友達だったが、どう見てもバンドをしているように見えなかったのだ。
それなのに中2の時に、卒業生を送る会で、
オリジナル曲を演奏しているのを見た時は尊敬してしまった。
教諭たちも3人の作詞作曲演奏ともに感心したらしい。
主に作詞作曲をしているのはピアノの夢路とベースの彩音なのだが、
柚は中1の時から夢路に恋心めいたものを抱いていた。
女に生まれたからには当然のこととして、
男子から告白されたこともあったし、
周りから「やーやー、おめでとう」と茶化されたしたこともたあった。
でも、男子より夢路のことが好きだった。
前出の絵梨が背伸びをした『大人めいた』だとしたら、
夢路は背伸びしていない聡明な大人めいた少女だった。
彩音と夢路は柚に対して手放しに好意を持っていた。
しかし、玲奈は柚に不思議なライバル心めいたものを抱いていた。

とはいえども4人は仲良しだ。
いつからか、作詞だけならと柚も作る時だけ仲間になっていた。
時折り、3人から柚も一緒にみんなの前でやろうよと誘われることがあった。
「あんたんちピアノ教室やってるんだからなんかできるでしょ?」と
特に彩音がしつこく誘ってきた。
実は、その教室を開いていた母親のスパルタ教育こそが柚の音楽嫌いの原因だった。
「実は音符読めないんだよっ…。」
「うそ!この前ピアノ弾いてたじゃん?ある意味天才だよっ」
夢路も驚きを隠せなかった。ただ玲奈だけは
「誰だって苦手はあるんだから無理に誘うのはやめよー」と言ってくれた。
内心、玲奈は柚が仲間に入ることを心よく思っていなかったようだ。

しかし、高等部になると玲奈は申し訳なさそうに辞めてもいい?と
夢路と彩音に両手を合わせた。
大野絵梨たちのバンド内で揉め事があってギター担当が辞めて、
男子4人のバンドに移ることになったので、
玲奈がその穴埋めに誘われていたのだった。
元々玲奈がアコースティック系の音楽よりも、
ロック系の音楽をやりたかったことは彩音も夢路も知っていたし、
なるべく意識して、そういう方向性の曲も夢路は作っていた。
でも、引き止める理由は無かった。夢路も彩音も、
海辺之美少女倶楽部を辞めても友達でいることを約束させて、
玲奈を気持ちよく見送った。

そして、一人抜けたので当然のように
「人前ではやらないからギター弾いてよ。お願いだよー!
 アルハンブラの思い出弾いてたじゃない!」と
2人がかりで拝み倒されて、
とうとう柚は海辺之美少女倶楽部の正規メンバーとなった。

彩音の父親の知り合いの工場の2階が練習場所で、
日曜の度に迷子町の隣町まで市電に乗って出かけた。
意外にも両親は 気持ち良くバンド活動を始めることを喜んでくれて、
Kヤイリというメーカーの小ぶりのエレアコを買い与えてくれた。
いざ始めてみると思いの他楽しかった。
特に夢路の歌はハモリが多いので、上手に出来ると嬉しかった。
玲奈はギターは上手だが歌はてんでダメだった。
だからボーカルは彩音と夢路だけだった。
ところが柚は玲奈の逆で、
演奏があまりよろしくなかったが歌は良かった。
人とは違う変わった声だが、魅力的な声質とも言えた。
しかし、ひとりで歌うとそこそこの歌唱力だが、
主線を歌えばコーラスにつられ、
コーラスをやらせれば主線につられるという弱点があった。
「なんていう致命傷なのよ!」彩音は呆れ果てていたが、
夢路が丁寧に一音づつ指導してくれたお陰で
なんとか様になってきた。しかも、
夢路や彩音が曲を作り上げるところを
長い間傍らで眺めていたので、
見よう見まねで自分も作れるようになった。
それでも文化祭はやっぱり柚は抜けていた。

体育館の一番後ろでコンサートを見ている時だった。
仲のいい演劇部の部長の仁科先輩が
「なんで宮原は出ないの?」と優しく尋ねてきた。
「なんだか照れくさいじゃないですかぁ。それに見てるの好きなんですよっ!
 ファンクラブ会員番号1番」柚がそう言うと、
クスクスと笑って「でも、君は本当はお芝居もやりたいし、
 米倉や藤井とステージに立ちたいんじゃない?
 うちの連中が出たそうだよねー?宮原って言ってたよ。
 声かけると逃げるけどねって」と面白そうに笑った。
実は演劇部にいる親友から公募しているからと書いてみなよと言われて、
遊び半分に脚本を書いたのが柚で、
何故かそれを読んだ演劇部の顧問が
ゴーサインを出してくれたのだった。だが、
それは仁科部長が夜更かしして推敲してくれたお陰だということを
柚自身は知らないでいた。
兎にも角にも、それからというもの柚は
演劇部の部員達とは仲が良かったのだ。

「宮原が書いてくれた『午後の亡霊』の主人公は自分だよね?
 俺ね、なんだか勿体ないと思ったんだ。
 うちに入らない?一緒にやってみない?練習だけ?遊び半分で?
 そうしたら米倉や藤井たちとステージ立てるかもよ?
 いつでも遊びに来いよ。なっ?」
仁科先輩は柚の肩をポンと叩くと
他所のクラブの知り合いの方に歩いて行ってしまった。
折しもステージでは玲奈が仲間入りした
大野絵梨のバンドのステージが始まっていた。
タイトな黒いミニワンピにキャンディレッドのレスポールを
手にした玲奈の大音響のリードソロで曲が始まると
「レナー!」と男子達の声が響いた。
(みんなやりたいことをやってるんだなぁ)柚はため息をついた。
正直、心の奥底で、時々だけれど、
自分に対してチクリと皮肉や意地悪を言う玲奈を
苦手だと思っていた。けれど、水を得た魚のように
ギターを弾いている今この瞬間の玲奈は
やっぱりけっこう美人に見えた。
(人は好きなことをしている時、キレーになるのかもしれない)
そう思った。
相変わらず、彩音や夢路とは練習につきあうだけだったが、
何の因果か放送部が、ランチタイムに3日連続で
演劇部の放送劇を流すことになって、事の顛末を描くと
あまりに長い話になるので割愛するが、
その放送劇に柚の声が流れることになった。
実は、文化祭の後、仁科部長の言葉に誘われてふらふらと
演劇部に遊びに行き、放送劇をやるんだけれど、顔は出ないし、
ほら、コメディだし!冗談でやろう!といいように持ち上げられて
気がつけば主役だった。
ランチタイム。教室内で何故かみんな笑っていた。
どうやらウケているらしい。
担任の教師が大笑いしながら
「お前は日本では珍しいと言われている
 コメディエンヌになれるかもしれないな」と言ってくれた。

(なーるほどー。みんなが笑ってくれると嬉しいなぁ。それにしても、
 ずっと練習してきた演劇部の人たちはよく怒らないなぁ。
 選ばれし恍惚と不安、我にありだにゃ)

なんとはなしに許されてしまう。甘えているわけではないのに、
反論されることなく通過してしまう。
柚には不具合な悩みもそれなりにはあったが、
生まれついてそういうところだけは運に恵まれていた。
しかし、成功者の多くがそれを自覚しているからこそ
成功を掴むのに対して、
柚はその自然の成り行きが堪らなく嫌だった。
申し訳ない気がしてならなかった。
「み〜や〜!おまえはいい男に誘われると
 ホイホイついて行って人前に出るのかぁ!?
 あん?この自意識過剰めっ!こっちもやれ!出ろっ!
 12月に軽音部の発表会があるから出るんだ!」
放送劇を聞いた彩音がにじり寄ってきて
柚の首を両手でつかんで揺さぶった。
「ヒィィィ!怪力だよっ!リード取れないからさ…」と
言い訳をすると「期待してないよぉー。
 前奏間奏後奏はピアノで出来るし。
 なんならほとんど打ち込み出来るし。」と夢路が笑った。
「わたしのベースソロもあるし。ハァハァ」と
彩音も狂おしそうな顔で畳み掛けてきた。
かくして、とうとう柚も黄昏市市民会館の大ホールでの
コンサートに出演することに決まってしまった。
しかし、いきなりはハードルが高すぎるので、
先ずは校内の発表会からということになった。

柚は、彩音や夢路とは仲間だが、
軽音部には入部していなかったので、入部するところから始まった。
初めて会った軽音部の部長は、
もしもし?いつの時代から来たんですか?と尋ねたいような高3だった。
長髪で花柄のシャツを着て「Ya-Ya-Yah!僕が部長のデリカシー小川だよ!
 ヒッピーハッピー大ホッピー!」と言った後、
柚を力任せに抱きしめた。
新入部員の自己紹介をした後、周りを見ると、
さすが海辺之学園。最新の音楽をやりそうな連中に混じって、
クルーカットのグループサウンズみたいな人や、
70年代のハードロックバンドみたいな人や、
やたら「ナウ!」とか「ヤング!」とか言っている
アフロへアの軽薄そうな人まで、
こんなにバラエティに富んだ部員をまとめる部長は
余程の人物に違いない! 柚は開いた口が塞がらないまま呆然とした。
大きなサングラスにアフロヘアの2年生が聞こえる距離なのに
マイク越しにPAを通して「ヘイ?柚!Let's groove!
 ナウな俺たちにとっては音楽はNO、border!OK?」と語りかけてきた。
すると照明が落ちて、大音響で
EARTH WIND&FIREの『Let's groove』が流れてきて
天井のミラーボールが回りはじめて部室は大昔のディスコになってしまった。
椅子に腰掛けたまま呆然としていると
誰かが背後から脇に手を入れてきたので、
くすぐりに弱い柚は電気が走ったように直立に立ち上がった。
振り返ると玲奈が笑っていた。
玲奈は柚の耳元に唇を近づけると大声で
「ゆず!おーどーれー!踊っちゃえー!Let's dance!」と叫んだ。
(あれ?音楽は楽しいぞっ!ノーボーダーだ!)
ここで、ドラマやアニメなら、
部内発表は大成功といくのでしょうが、
そうは甘くはありません。たかだか五十数人を目の前にしただけで、
柚の演奏はガタガタだった。

。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜

部内発表の翌日の土曜日、3人は学校帰りにCOTTONという名のカフェに寄って
ミーティングをした。 実は、月水金の3日間たけ柚がバイトしているお店であった。
3人はさえない表情で柚を真ん中に挟んでL字型のカウンター席の角に腰掛けていた。
「それにしてもさぁ……」夢路が口を開くと、
すぐに柚は「面目無い」と古めかしい言い方で謝った。
「なんで演奏中に『あ』とか『と』とかオンマイクで言うのさ。
 わたし霊現象だと思ったよ!」直情的な彩音は本気で怒っていた。
「彩音ちゃん、あれはね、ウォッ!ミスしそうとか、
 あ、できたとか、そういう気持ちが声に出るんだね。ハハハハハ」
「笑い事じゃないよっ!」「ひ!すみませんっ!」
カウンターの中では、鋏で小さく切ったトクホンを左右のこめかみに貼った
着物にエプロン姿の風変わりなママが、洗い物をしながら、
聞くともなしに聞こえてくる珍妙な会話に、
俯きながら肩を震わせて笑いを堪えていた。
「でもさ、みやちゃんさ、あんなあがり症でさ、
 いくら放送劇とは言っても、よくできたよねぇ?」
夢路は特に怒ってはいなかったけれど打開策を模索していた。
「あれは、ほら、役になりきってたし、お客さん見えないしさ」
ステージに立つことに喜びを感じている彩音からすると、
休み時間と放課後は沢山の友達と笑ったり
ふざけあったりしているくせに、
あがり症という柚の頭の中身がまったく理解できなかった。
「でも、お客さんじゃないよっ?部員だよ?
 仲間だよ?恥ずかしくないでしょーが!」
やっぱり彩音にとっては疑問だらけの柚だった。
そこに、ママが「い〜い?」と話しに割り込んできた。
3人は30前後にして『やり手ばばぁ』とか『行かず後家』とか言われている
人生の先輩の言葉に神妙に背筋を伸ばした。
「つまりさ、その発表会の時は小さな場所でさ、
 聞いている人の顔が見えたんでしょっ?そりゃ〜わたしみたいに美人だとさ、
 毎日もう生きてるだけでねっ、他人の視線浴びまくりだから慣れてるけどさ
 ギャハハハハハハハハハ!」と品のない笑い声を上げた。
3人はしげしげとママの顔を見つめた。
ママは「ヤン!見つめないで!」と顔を両掌で覆って照れているふりだけはした。
しかし、すぐに真顔になるとこう言った。
「次にやる時は、本番の時と同じように照明を落として
 スポット当ててもらってみなよ?
 見ている人の顔見えなくなるよっ。
 それと役になりきれたんならさ、芸名付けて、
 その役になりきればいいんだよっ」
全然期待していなかったが、さすが人生の先輩!
ママの言葉に夢路と彩音は目からウロコ。
2人は顔を見合わせてユニゾった。「それいってみよー!」

尚もママはまじめに語り続けた。
「10代ってね、まぁさ、青春ってさ、
 はにかみやの目立ちたがり屋とっては、なんだろ、
 とってもめんどくさい時間なのよ。でもさ、柚ちゃん。
 あなたには誰かに伝えたくて表現したくて
 仕方ないことがあるんでしょ?、もーね、マグマみたいのがね、
 頭の中でドッロドロなんでしょっ?だからさ、
 そのめんどくさい自意識とさ、伝えたいことを天秤にかけてごらんよ、ね?」
そう言い残すとカウンターの奥の常連客の方に行って、
「キングー!カンチー!トラー!今月のツケを払いな!」と怒鳴っていた。
次の部内発表は、夢路の進言で、部内発表とはいえども、
公開ライブの形を取ることになった。
視聴覚室に小さなステージを作り、隣の教室を楽屋がわりにして、
リハーサルも行った。
タイムテーブルは、1年生から順に発表することになっていて、
1人目は1942年から転校してきた学生で、
バイオリンとアコーディオンとギターをバックに
ボーカルが直立不動で歌うという柚にとっては初めて見るスタイルだった。
丸メガネに燕尾服という出で立ちのボーカルが、真っ直ぐに背筋を伸ばして
「『一唱民楽』の言葉のごとく!『歌は民のため』という信念を持ち!
 演奏させていただきます!」と幕開けの言葉を言うと、
場内から「なんだかよくわかんねーけど、いいぞー!」と声が掛かり、
怒涛の如く場内は湧き上がった。
次のバンドは全員ゴスロリファッションで、
「御主人様、お嬢様、いらっしゃいませ」
と言い終えたと同時に強烈なヘビィメタルを始めた。
大音響の中、部長の小川が背後から柚に近づいてきて耳元で
怒鳴るような大声を出した。
「HEY!HEY!宮Girl!ヒッピーハッピー大ホッピー!
 この魔法のジュースをDrinking!」
緊張しきっていた柚は部長から渡された缶ジュースを一気に飲み干した。
「OK?いいかぁーい?、入部した日の
 あのディスコティックのgrooveを思い出すんだ!」
部長はそう言うと、にやにやと笑いながらミキサー卓に戻ってしまった。
柚は「楽屋に行くよー!!」と彩音と夢路に手を引かれ隣の教室に行ったけれど、
音が筒抜けでチューニングしづらかった。
柚は、ライブの音が聞こえなくなるくらい離れた教室まで行って
音を合わせてから楽屋に戻った。
「どうせたったの3曲だからさ、ね?」
夢路がそう言った後、夢路も彩音も柚を両側から抱きしめた。
「大丈夫?」と夢路が尋ねると、柚は「だいじょぶだいじょぶ」と答えた。
「そうさ、だいじょぶさぁ」彩音は、玲奈の時には無かったはずのこのピンチさえ
楽しい気がして、なんだか可笑しくてたまらなくなった。
2年生の男子がドアを開けて「出番だよー!」と声を掛けてきた。
照明が落とされた暗い中でマイクセッティングや
譜面台を用意してくれているのは2年生たちだ。
「用意はできたかーい!」MC担当の部長の問いかけに3人が頷くと
「だーんし!5番手は1年A組のこうさぎちゃんたちだ!
 海辺之美少女倶楽部!Beachside!Beautifulgirl!Club!BBC!」
もう1度繰り返した。「B!B!C!」やたらに煽るのがうまかった。
夢路が「どーもー!曾我廼家パンチでーす!」と言うと、
柚が「曾我廼家ピンチでーす!」と言い、
彩音が「柳原加奈子じゃねーよ!」と怒った後、
「うそうそ!曾我廼家ポンチでーす!3人合わせて?」
「海辺之美少女倶楽部でーす」とバンドらしからぬMCを始めた。
上級生が「おまえら何練習してたんだー!?」と
野次を飛ばすと場内から失笑が漏れた。3人はへこたれずに
「つかみはOK」とお腹のあたりで拳を握ったが、
他の上級生がふざけ半分に「全然OKじゃねー!」
と怒声を上げると、視聴覚室に爆笑が起きた。
1曲目は彩音オリジナルのポップな曲で始まった。
この曲のイントロは、柚のカッティングで始まり
彩音のリードベースが入ってくる。
サビのハーモニーが聴き心地のいい仕上がりになっていた。
2曲目は、リーダー夢路が作った『やさしさの形』という夢路が中2の時、
卒業生に向けて作り、学年代表で発表することになった
誰もが認める名曲だった。
そして、ラストに柚の曲を用意したのだが、
柚の目が座っているではないか。 PAの小川部長の隣の副部長が
「なんか彼女様子が変ですよねぇ?」と言うと
「あいつにあげた缶ジュースにこれを少しばかりね」と
笑いながらジンのボトルをつまんで持ち上げた。
副部長が悟達したかのような、
まるで五百羅漢の一体かと見紛うような表情で
「先輩?またやっちゃったんですね?下手すると、また停学ですよね?」と言うと、
小川は「ヒッピー!ハッピー!大ホッピー!」と
お決まりのセリフを吐いて副部長の肩を抱いた。
3曲目は語りから始まる『招待状』という曲だ。
或る日、イジメに遭って自殺に追い込まれたクラスメイトから
同窓会の招待状が届くというショッキングな内容で、
音も内容もディープでダークでヘビィなハードロック調の曲だった。
夢路としては、なるべく誰にも頼らずに3人で仕上げたかったが、
これだけはどうにもならず、
ドラムとエレキギターは1969年から転入してきた3年の男子にお願いすることにした。
あらかじめ、ドラム担当者には、なるべくオカズを入れないで下さいとお願いし、
ギター担当には出来ましたら、
なるべくボーカルに音をかぶせないようにしていただけたらと
丁重に深々と頭を下げてお願いしていた。
1969年からタイムワープして通学している高3男子は大人だった。
ボーカルを如何に生かすかが大切さ。
な?と2人苦笑いして夢路の願いを叶えてくれた。

果たして3曲目のステージはどうであったかと言うと、
柚は、小川から渡された魔法のジュースの効力なのか、
まったくあがっているふうには見えず、
緊張しているどころか寧ろ挑発的とも言えるほどの
パンキッシュなステージアクトであった。
照明が落とされた視聴覚室の壁に背中をもたれて、
演劇部の仁科部長は、スポットライトの中の柚を見つめながら、
ポカンと口を開けたまま「宮原…覚醒」と独り言を呟くと
口元に拳をあてて声を出さずに笑った。
3曲演奏が終わり、 夢路、彩音、柚の3人と高3の男子2人が
隣の楽屋代わりの教室に戻ると、
メークを落として制服に着替えていた玲奈が
ハイタッチのポーズで待ち構えていた。
5人は、玲奈や他にも待ち受けていた次の出演バンドとハイタッチを交わした後、
みんなで、「できた!できたー!ミスタッチ無かったね!」と
大はしゃぎして抱き合って低次元な喜びを噛み締めた。
模擬コンサートは大成功を納めたのだ。
翌週の月曜日、柚はバイト先のカフェCOTTONのカウンターに立ち、
ママに録音しておいたライブの音源を聴いてもらった。
「へー、思ってたよりまともなんだね。ねーねー、
 常連さんたちに聴いてもらおうよ?けっこう音楽好きというか、
 アーティスティックなお客様が多いからさ。なんかアドバイスしてくれると思うよ」と
ママが言うと柚は「それは畏れ多いからいいですよぉ〜」と
ママの提案を低姿勢に断った。すると、ママはにやにやと笑って柚の顔を見つめた。
「え?そうなの?へええええ、わたしだったらもっと良くする為に
 アドバイスが欲しいけどなぁ。もっと良くしたいなぁ〜」
そこに常連客が二人現れた。ピアノ教室の香菜と、日本を代表する調律師の根沖だ。
2人は同じ歳で、共にクラッシック畑で育ったが、
どんな音楽でも弾くし聴けるという寛容な人物だ。
香菜はいつも優しい微笑を浮かべた常連の中のマドンナのような存在で、
根沖は柚の顔を見ると、必ず両手を胸のところに幽霊のように手の甲を下げてみせて
「た〜わ〜け〜、元気〜」と声を掛けてくる口は悪いが白黒ハッキリした紳士だ。
継いで次々に常連客が現れた。
今は貿易商の社長だが、嘗てはフリージャズのバンドでドラムを叩いていたジャン、
夕方5時になると警備の仕事が終わり必ず訪ねてくる、
大昔、箱バンでサックス奏者をしていた70代のセルマー、
スパニッシュギターを弾いている向谷、
常連さんたちのまとめ役のような立場のドラ、
タイガースの羽織りを着た通訳のひふみ、
大学で昆虫の生態研究をしているすみれ、
デザイン事務所のキング、公務員のアキラ、
ウニどんとなまこさんと言うコンビの売れないお笑い芸人、
バラエティに富んだ人々が集まって来てそれぞれに談笑している。
柚はこの穏やかな賑わいを眺めているのが大好きだ。
但し未成年なのでアルバイトは22時までと決まっていた。
22時からの5時間は大学生とバトンタッチだ。
賑わいを制すようにママが皆に「聴いて聴いてー!柚が歌ってる音源があるのー!」と
声かけると、みんな口々に「聴く聴くっ!どんな酷いのでも聴くぞぉ!」
「酒がまずくなったら半額だぁー!」と口々に出鱈目な事を言っている。
そして、みんなが沈黙するとMC部分がカットされたライブ音源が流れた。
音が止まると温かな拍手が鳴り響いた。
「意外と聴けたなぁ。1曲目と2曲目は」と
一番年配のセルマーさんが大滝秀治みたいな声で口を開くと皆笑った。
「柚ちゃん、何を聴いてきたの?」スパニッシュギターの向谷が
不思議そうな顔をして柚に尋ねたが、柚も首を傾げているので答えを諦めた。
「なんか……アイドルがカルメンマキ&OZを歌ってるみたいだなぁ」
「あー、声と曲と詩がチグハグなんだよ」
「ウィスパーボイスなんだけど、バックがハードロックで歌がパンク?みたいな?ハハハハ」
「でも良かったぞ!」「もう無いの?なんかこの場でやってみ?」
「そうだよ!そこにギターあるからさ」
「あんまり何段階も展開しないやつな」
みんないい加減なことを言わせたら天下逸品の人々だ。
柚は大いに戸惑ったが褒め言葉に気を良くしたのか、
ママがソーダ水にジンを垂らしたせいか、
ギターを手にして店の片隅の椅子に腰掛けた。すると、
商社の社長ジャンが柚の背後にセットされたドラムの椅子に腰掛け、
根沖がベースを向谷がセミアコのギターをチューニングしはじめ、
そして微笑みながら香菜かアップライトピアノの前に腰掛けた。
「え?根沖さんベース弾けるの?」 柚が尋ねると
「うん。君の作る曲程度なら」と爽やかに毒舌を吐いた。
「1番と2番とリフだけの曲?じゃぁ、1番2回歌って間奏、
 それで2番、サビリピート、後奏ね」
「ほいじゃ、『君はルナパーク』と言う曲を」
おどおどしながら短く拙いギターのイントロを弾くと
「お、スローブギなんだな」とセルマーさんが呟いたと同時に
サックスのハードケースの留め金を外した。
向谷は柚の左手が押さえているトニックコードを見つめながら
「良かったぁ、循環コード、王道のブギーだ」と言いつつ、
もうバッキングを始めていた。ベースもピアノもドラムも先は読めたとばかりに
1番のサビに入る前に演奏を始めていた。
サビの追っかけのコーラスも何10年も練習していたかのように完璧だった。
間奏に入ると向谷のギターとセルマーのサックスが絡み合ってリードを取り始めた。
そこで根沖が柚のギターに掌を当てて片目をつぶり音を止めさせた。
ギター、サックス、ベース、ピアノとソロを取った後、
根沖が「はい、ボーカル」と柚の耳元に声を掛けた。
夢見心地で柚が歌うと、2番のサビ、そしてサビのリフレインと、
みんなのコーラスが聴いていて気持ち良かった。 そして、
エンディングで、まさかのママのピアニカが流れてみんな爆笑した。
演奏が終了すると、奏者もだが、
常連客たちも立ち上がって全員が拍手をした。
偶然にして、塾の帰り道にCOTTONの前を通りかかった夢路と彩音は
大勢の大人達に囲まれて歌を歌っている柚を見て目を見開いた。
「入ろうよ!」反射的な彩音の誘いに夢路は少しだけ考えてから
「今日は通り過ぎよっ」と柔和な眼差しで彩音を制した。
「そうだね」と彩音も賛同した。
そして2人は肩を小さくぶつけ合いながら
子犬の兄弟みたいにして帰路についた。

プロでさえあることだろうが、アマチュアの場合、
人前でのライブは後悔がつきものだ。柚も、御多分に漏れず
チクチクと後悔の念に苛まれることもあった。しかし、それとは裏腹に、
ささやかながらでも拍手をされたり、褒められたりしたらそう簡単に
辞められるものではない。他人に認められるという喜びは
麻薬のように表現者を魅了するものだ。柚はもう辞められない。
兎に角、柚はやる気になった。そんな柚に必要なのは場数をこなすことだ!
そこで、夢路のアイデアで3人は迷子町駅の駅前広場で、
ストリートライブを繰り返すことにした。友人でも知り合いでもない、
不特定多数の、しかも通りすがりの、素人の演奏になど興味もないだろう赤の
他人に向けて演奏するのは、柚は勿論のこと、夢路や彩音にも初体験だ。
しかし、意外にも通りすがりの人々は立ち止まり、人だかりができ、
警官に注意されたこともあった。そうこうするうちに、柚のあがり症は、
なりを潜めて、生き生きとライブをしている姿に夢路も彩音も
ホッと胸をなでおろした。2人もこればかりは緊張を隠せなかった。
そして、ついにその日はやって来た。
『12・24、海辺之高校軽音楽部Xmasコンサートat黄昏市市民会館大ホール』
2日間貸し切りで前日の23日はリハーサルに終始した。3人は
ホールの大きさに圧倒されたものの、いざ照明を落とされたホールで
スポットライトが当たると観客がハッキリ見えないことに気づいた。
演奏時間は1年生は20分、2年は25分、3年は30分。
演奏の順番だが、それは顧問が悩みに悩んだ末に各学年の中での巧拙で決まる。
意外なことに、柚たちは1年生のトリに決まった。
様々な時代からタイムワープ通学してくる学生たちがいる海辺之学園。
この高校の軽音楽部のコンサートは町でも有名だった。
戦後歌謡、グループサウンズ、フォーク、ハードロック、ヘビィメタル、
テクノ、ポップス、R&B、AOR、モータウン、ブラックコンテンポラリー、
ブルース、ボサノバ、ありとあらゆる音楽の祭典となるからだ。
特に、娯楽の少なかった時代からタイムワープしてきた学生たちの演奏レベルは高い。
ゲームもスマートフォンも何も無い時代の学生ほど
練習に明け暮れていたということだろう。
一般客にはコピーバンドの方がウケはいい。しかし、顧問の教諭の心の底には、
巧拙を考慮しつつもオリジナル曲を持つバンドに光を当ててあげたいという気持ちが
あったのかもしれない。それだけ、あまりにも多様な音楽が溢れている現代に於いて
オリジナリティを求めるのはとても困難なことだからなのかもしれない。
当日の出演者は以下の通りだ。バンド名を見ているだけでも人によっては
興味深いものがあるだろうし、吹き出す者もいるかもしれない。
軽音部の顧問は出演者の順番を何度も確認した。
1年生。演奏はピカイチだが「特攻の精神で1番目にやらせて戴きとうございます !」と
懇願してきた1940年代から通学している帝都大民学団/
レディースバンドの草分けバングルズのコピーバンド、バンクルワセズ/
スリーピースのロックンロールバンド、ショットガンズ/
Jガールズバンドのヒット曲を集めたBitterPeach/
Hip Hopユニット、韋駄天銀次/
テクノ系のサイレントノイズ/
ムード歌謡とグループサウンズを織り交ぜた松尾加代と暇なスターズ/
オリジナル曲中心の海辺之美少女倶楽部with Wolves/
2年生。パンクのスリーピースバンド根本浣腸と脳チラス號/
名前から連想できないポップロックの女子5人組、ハグ屋姫/
60年代から通学しているカントリー&ウェスタンバンド、荒野の東尋坊/
ニューウェイブ系の女子5人組、パドゥドゥ/
ネタウケ狙いのコミックバンド、アーモンドヘーゲルオーケストラ/
メンヘラ系の女子4人のメレンヘラー/
ブラスバンド部からかなりの人数を応援要請したらしい
昭和刑事ドラマのテーマ曲を演奏するtheたいほえズ/
その名の通りサイモン&ガーファンクルのそっくりコピーバンド、大門&サーファンケル/
3年生。3年生は腕は確かだがコミカルなバンドが多いのが特徴だ。
全員ロボットのような衣装でアカペラで
ゴスペル調の下ネタ満載の歌を唄うシーモネーター/
やたらに艶っぽい女子3人のボーカルが、
夜の匂いが立ち込めるような演奏をする男子をバックに集めたP!nk salon special/
軽音部というより、ただのマイケルジャクソンのモノマネ芸人としか
言いようがない舞蹴瑠寂聴/
1年女子がボーカルだが、演奏するのは
バイトに明け暮れて疲れきった3年男子4人のCuty Gold+アルファ/
18歳にして、恋人が出来るのは夢の夢と諦観している
電子音を多用する不思議サウンドのイカズゴケミドロ/
69年から通学している正統派ハードロックバンド、SECOND HAND'S/
その名の通りディスコ全盛時を彷彿とさせる音楽を発信するMars wing&fighter/
「なんだか、今年も凄いなぁ?」 軽音部の顧問は長い時間苦笑いしつづけていた。
おおよその巷のライブハウスでは、ブッキングされるバンドは似通っている。
例えばパンクバンドが3バンド立て続けとか、
ビジュアル系が並ぶとか、
観客の音楽の趣味に合わせるようにブッキングするわけだ。
ところが、海辺之学園のコンサートのジャンルは多岐に渡る。
このような催しで問われるのはMCの力量に他ならない。
放送部から借り出したアナウンサー志望の3年男子と2年女子、
そして軽音部部長デリカシー小川3人のバンド紹介と音楽の解説が、
決して内輪受けや楽屋オチではないユーモアに溢れ、軽妙洒脱。
まるでテレビの音楽番組の総合司会者のようであった。だから、
老若男女問わず、聴きなれない音楽に対しても、拙いテクニックであっても、
飽きられす呆れられず温もりあるステージ進行となっていた。
あちらこちら探検していた柚が楽屋を覗くと、
大野絵梨と玲奈のバンド、Bitter Peachの面々が常温の水を
ちびちびと飲みながら喉を潤していた。なんでも熱すぎても冷たすぎても
喉にはよろしくないらしい。「玲奈でも緊張するの?」柚が尋ねると
じーっと柚を見返して「あったり前じゃん!」と笑った。
「みんな緊張してるよー!でもさ、緊張を楽しもーよ?」
怜奈の隣の大野絵梨も口角を上げてにんまりしている。
(そっか、緊張を楽しむんだ。ジェットコースターやお化け屋敷とおんなじだっ)
とうとう柚たちの出番になったが、夢路から「行こう!みんなが待ってるよっ」と
言われた時には気持ちが落ち着いていた。
(待ってる?待ってるの?そうなんだァ?待ってるんだっ。)
MCが煽るように声を上げる「海辺之美少女倶楽部!」「with!」「Wolves!」
1曲目は『Judas is Crying』柚のオリジナルだ。
柚はボサノバや静かな曲を好んで聴くくせに作るとハードロック調になる。
2曲目は明るいポップな音楽が好きな彩音のオリジナル『ハートはノーメーク』
3曲目は夢路の小洒落たバラード『君はCool』
最後は3人で作った『片翼のゆめ』という、夢に駆け上がる為の翼が傷つき
絶望している友達の為に自分の翼をあげようという内容の
静かに始まり、だんだんと展開して盛り上がる曲を用意した。
全曲演奏を終えると、観客席からまるで爆発音ように、ドン!と声援が沸き起こった。
拍手の音がなかなか鳴り止まない。5人が深々とお辞儀をして灯りが落ちても、
バックステージに姿を消しても拍手は続いていたが、
MCが上手に観客の興奮を収めてギャグを交えて笑いに転じさせた。
楽屋に戻ると、2年生のトップバッター、脳チラス號のリーダー、根本ニャンが
「あんたたち本気だすんじゃないわよっ!やりずらいったりゃありゃしないわ!
 この、ばーかっ♡」となじってきた。根本ニャンはオカマキャラで
誰にでも毒舌家だが、柚たちに対しては愛情深い毒を吐いているようだ。
「ま、いいわっ、わたしたちのライバルは痴漢ネタしかやらないラッパーの韋駄天銀次と、
 シーモネーターの連中だからね♡
 おまえらみたいな薄ぎたねーエセシンデレラは敵じゃなんいだよっ!」
乱暴なんだか乙女チックなんだかわからないセリフを吐くと
「おう!おまえら行くわよ!」とドスの効いた声でベースとドラムスを従えて3人で
スキップをしながらステージに向かっていった。
もうそれだけで場内から笑いが漏れていた。脳チラス號。恐るべしバンドだ。
夢路と彩音が「ニャンさんがいつも言ってる『うすぎたねーエセシンデレラ』って
 なんだろうね?」と柚に尋ねるので、
柚が「それは、だねぇ、1985年の小泉今日子主演の大映テレビ制作のテレビドラマ
 『少女に何が起こったか』の中で悪徳刑事を装ったほんとは正義の刑事が
 ヒロインに浴びせる言葉だぬん!ラストでは
 『可愛いシンデレラ』と言い替えるのさ!」と
テレ玉で仕入れたばかりの知識を披露した。更に
「ちなみに、にゃんさんは80年代からのタイムワープ入学なんだね」の言葉に、
夢路と彩音は大いに納得した。
さて、話しをコンサートに戻そう。
と雖も、全ての出演者の話しを書いたらキリがないので、
最も場内を爆笑の渦に飲み込んだアーティストのお話しをしよう。
それは舞蹴瑠寂聴(マイケルジャクチョウ)だった。ダンス部の全部員を
バックダンサーとして招いてのステージアクトは圧巻。
折角中心の本人もダンスもプロかと見紛うばかりなのに、
何故か途中で裸になった。
見れば、競泳パンツ一枚の全身に電子治療器のパッドが貼ってあるではないか。
実はコンサートの一週間前、柚は寂聴から拝み倒されて、
キメのところで、離れたところから電圧最高値で
スイッチを押してくれと頼まれていたのだ。そこで、
例のマイケル特有の「アオ!」とか「フゥー!」とか奇声を発して、
カラダが感電したように跳ねたり硬直したりすればウケるという目論みであった。
頼んだ相手が悪かった。柚があまりにも不器用で、
タイミング悪く出鱈目にスイッチを押すので、音楽とまったく合わず、
無意味に寂聴が奇声を上げるたびに場内に爆笑が沸き起こった。
とうとう寂聴が怒りだして、競泳パンツのお尻に差し込んでいたハリセンで
柚の頭を叩くところでダンサーの動きがピタリと止まり、
割れんばかりの歓声が上がった。
お笑い系アーティスト、韋駄天銀次、脳チラス、シーモネーターの連中は
その歓声の中で、みんな舌打ちをしていた。
柚は、悔しがるお笑い系バンドの面々を見ながら、
どう考えても、モノマネ選手権とか、
M1グランプリに出るべき人達ではないかしら?と首を傾げた。
ともあれ、笑いあり、感動あり、懐かしさあり、新鮮さありの
コンサートのラストを飾るのは小川部長のMars wing&fighterだ。
『Let's Groove』『September』『宇宙のファンタジー』と
往年のディスコヒットが流れ場内は巨大なダンスフロアと化した。
途中、ボーカルが小川部長からP!nk salon specialの歌姫3人組に代わった。
彼女たちは背中が大きく開いたドレスや、スリットの深いワンピースや、
カラダに張り付くようなミニを穿いて現れ『君の瞳に恋してる』を歌い始めた。
盛り上がりは佳境に達した。迷子町の人々、海辺之学園の様々な時代から
タイムワープしてきた学生たち、教師陣、謎の動物、幽霊、宇宙人、妖怪、
みんなリズムに身を委ねて心の底から楽しんでいるようだ。
そして、ラストソングは、原曲がなんなのかさっぱりわからないくらいに
ダンスアレンジされたビング・クロスビーの『ホワイトクリスマス』だ。
この曲では、軽音部全男子と校長以下全男性教諭陣からのたっての願いで、
全女子部員がミニスカサンタに早着替えして再登場することが
半ば強制的に決められていた。果たして10代のミニスカサンタが37人現れると、
場内の男性客は子供からお年寄りまで
アイドルヲタクの追っかけのように歓喜の雄叫びを上げた。
観客席の暗闇の中で、顧問は指を指して人数を数え首をひねった。
はて?女子部員は36人だったような?顧問の教師が双眼鏡で、よく見ると
ミニスカサンタの中に1人だけ男子の根本ニャン吉が混ざっていた。
そして、ついにエンディング。最後に全部員が手を繋ぎ頭を下げ「メリークリスマス!」
と言ったところで照明がだんだんと暗くなり、幕が降りてきた。
コンサートは大成功だ。 あまりの感動に柚は幕が閉じた後も号泣しつづけていた。
「部長!楽しいよぉ!あぁぁぁ!もっと早く入部すればよかったよぉ!
 音楽はいいなぁ!もっと早く会いたかったよっ!ぶわぁぁ!どこにいたのさっ!?」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃのまま柚は小川部長に抱きついた。
小川部長はとてもシャツが汚れるのを気にしつつも苦笑いしながら
柚の耳元で呟いた。
「みんなと一緒におまえを待っていたのさ」



【第1話おしまい。第2話につづく】
2017年8月23日 20:40:27

『バンドの物語』(第2話)



あの『海辺之学園軽音楽部クリスマスコンサートat黄昏市市民会館大ホール』の日から、
あっという間に時は流れ3月1日3年生の卒業式が終わった。
3年生たちは進路も決まり、長い春休みが始まる。
残す行事は3月27日の卒業記念コンサートを待つだけとなっていた。
軽音の(元)部長小川は沖縄の国立大学に合格。
いつもの口癖「ヒッピー!ハッピー!大ホッピー!」が
「ヒッピー!ハッピー!泡盛薄くして!」に変わっていた。
そして、何かと柚のことを気に掛けてくれた演劇部の、
やはり(元)部長になった仁科は、名優と言われた役者たちを数多く輩出したことで
有名な明路大学の文学部演劇学科に合格した。
或る日のこと、柚はその仁科からデートに誘われた。
柚は、過去にも何度か仁科に誘われて東京の明大前や
下北沢の小劇場に行ったことがあったのだが、
それをデートだとは思っていなかった。だから、今回、桜桃島の水族館に誘われたのも、
お芝居を見に行った時と同じような感覚で受け止めていた。
桜桃島は、迷子町の彷徨海岸のはずれから橋を渡った所にある
サクランボのように並んだ2つの丸い島のことで、
地元の若者達からは『チェリー島』と呼ばれていた。
ビーチから見て、右の島には展望台、左の島には水族館が在って、
永遠に夏の終わりの黄昏時のままのこの町故に、
3月でもその気になれば海水浴ができることから、夏よりも、
寧ろ冬のリゾート地として知る人ぞ知る場所であった。
但し、クルマやスマートフォンのナビでは見つけることはできない。それが迷子町なのだ。
とにかく、そのチェリー島に「俺の愛車で行かない?」と誘われた。
仁科の愛車というのは、古ぼけてくすんだ色の白いベスパだ。
学校にもそれで通ってきていた。柚は『ローマの休日』に出てくるのと似た形の、
そのスクーターが気に入っていた。
お芝居を見に行った時は電車だったので、それなりに流行りの服を着ていたのだが、
その日は地元で、しかも折角のベスパなので、
ふざけ半分に映画のオードリー・ヘップバーンを真似て、
白いオープンカラーのブラウスに、腰の辺りを締めつけたミモレ丈の
サーキュラースカートという出で立ちで、家の近くの公園のベンチに腰掛けて待っていた。
仁科は、9時ピッタリに現れた。スクーターを公園の入口に停めて歩いてきた彼は、
白い開襟シャツとベージュの麻のスラックスというどこかレトロな雰囲気の姿で
「お待たせ」ニコリと笑った。そして、柚をしげしげと見つめると拳を口元にあてて
「ハハハハハ『ローマの休日』だなっ?」と笑った。
「デヘヘヘ」と照れくさそうに柚が笑うと「その笑い方はやめろ」と仁科も笑った。
彼は笑ったまま「ほら、宮原にやるよ」と帽子を柚に差し出した。
それは一見するとカンカン帽にそっくりな、実はヘルメットだった。
あごひもさへ無ければ普通のカンカン帽だ。「かぶってみなよ」と
言われてかぶってみみると、仁科は本気で笑った。
「いいぞぉ!宮原ぁ!おまえ帽子似合うなぁっ!」と益々笑いが止まらないようで、
柚は大至急鏡を見たいと思った。
スマートフォンのカメラで確かめようとしたが、そんな暇も与えてくれず、
「さっ、行こうか」と仁科にうながされてベスパの所まで行くと、
ハンドルに風変わりなヘルメットがぶら下がっていた。
「変なヘルメットぉ?」柚が言うと「えーっ!?レア物なんだぞっ?知ってる?
 知るわけないか?『初代ウルトラマン』の科学特捜隊のヘルメットなんだぞっ」
自慢げに語られても、柚にはその価値がわからなかった。
「中野のブロードウェイで買ったの?」と尋ねると
「おまえよく知ってんなぁー」とまた笑った。
兎にも角にも、科学特捜隊とカンカン帽は桜桃島に向かって走り出した。
「仁科元部長ーっ!『ローマの休日』だったらヘルメットかぶらないですよねっ!?」
柚が仁科の耳元に口を近づけて言うと「王女が頭打ったら大変だろっ !」と返ってきた。
(おぉぉ、王女だってぇ。なんだか嬉しいなぁ)柚の中で気持ちが少し気持ちが高揚した。
桜桃島には30分程で着いた。2人は水族館をたっぷり堪能して、
右の島のレストランで食事をして、エレベーターで展望台に上った。
エレベーターの扉が開くと濃厚な潮の香りを孕んだ海風が心地よかった。
「わぁ」思わず柚が声を上げた。
二人で展望台をくるりと一周してみると珍しいことに誰も人がいない。
「俺は、何度も来てるけれど、こんなの初めてだよ」
仁科の言葉に、一体彼が誰と来たのか気になった柚だが、何も言わずにいた。
「宮原もだろ?」
「うーん、わたしも誰もいないの初めて」その答えを聞いて、
仁科も柚が誰と来たのか気になったので「どうせ米倉や藤井たちとだろ?」と
さぐりを入れてみた。すると柚は「ナイショ」とふざけて答えた。
仁科は「あ。けっこう予想外の答えだったなぁ」と呆然とした顔をしたが、
逆に柚から「先輩は?」と尋ねられると「ナイショ」と言い返して笑った。
「怪し!」と柚が言うと、冷静に仁科は
「本当は嘘だよ。悩み事があると、よく1人で来てたんだ。」と呟いた。
2人は展望台の柵に肘をついて頬づえをついたまましばらく黙った。
実は、柚も悩み事があると、独りでここを訪れていた。
濃淡や密度に差こそあれ、悩みは心の体積いっぱいに広がるものだ。
「悩みがあるなら、聞きますからね?」と言うと
「めちゃめちゃ心強いなぁ」と笑った。
仁科は、海を見つめながら、急に思い出したように柚の方を向いて
「あ。忘れてた!そうだよ!先週小川と来たよ。
 小川のカブと二人でツーリングしたんだよ」
仁科は、まだ高校生なのに笑うと目尻に少し皺が入る。
立て皺は良くないが横皺は良いと祖母から聞かされたのを思い出しながら
仁科の横顔をぼんやりと見つめていた。
「小川さん?それって、うちの部長?そう言えば、よく一緒にいますよね?」
「そうなんだよ。なんだかあいつとはウマが合うんだよな。
 そうだっ!あいつ、この前さ、『柚はおまえに譲ろう』とか言ってたぞ」
仁科は可笑しくて仕方ないような顔をした。
柚はそれを聞いて「ホッピー部長とつきあった記憶はないよ!」と顔をしかめた。
仁科は柚の怒り顔を見て
「小川は面白いよな。『柚は俺のカラダとルックスしか見ていない!』ってさ、
『ルックスは俺の勝ちだけれど家柄はおまえの勝ちだから譲る』って言うんだよっ、
お互いにろくな家じゃないのにな!?ハハハ……」 実に爽やかな笑い声だ。
「も?、知らない所で勝手なストーリーを作るんだもんなぁ?」
柚はうんざり顔で柵の外側に腕と頭を垂らして、うんざり顔をした。
仁科が、かなりの数の女子の憧れの的なのは柚も知っていた。
彼は、背が高くてクールで、なのに優しくて、不思議なオーラがあった。
2人で会っている時に(なるほどなー、こりゃモテるよね)と
内心思うことも多かった。
演劇部の同級生、麻生千紗という聡明で明るい美人と
つきあっているらしいという噂もあった。確かに2人並ぶとオーラが2倍だ。
柚は、懸命に、なるべく屈託ないふうを装って
「麻生先輩ともここに来たことありますか?」と聞いた。
しかし、仁科は極々自然に「麻生?麻生とはないよ?何度かお茶したくらいかなぁ。
 3年間同じクラス同じ部活だったから、よく話したなぁ。でも、
 麻生は中身が男みたいだからなぁ」と答えた。
(むむむ、意外じゃまいか!) 柚の頭の中が高速で回転しはじめた。
普通の人ならば、その回転を止めてから言葉にするものなのに、
いつも結論が出る前に喋ってしまう。 たとえばこんなふうに。
「え!?先輩ってカノジョいないんですか?」あまりにも唐突な質問の仕方だ。
仁科は困り果てたような顔で意を決して答えた。
「いるよ、いる……つもり?俺はカノジョと思っているけど、
 向こうには全然伝わってないのかも」 柚は正直がっかりした。
がっかりしたが更に平静を装った。
「わたくしめが伝書鳩になろうではありませんか?」
「伝書鳩?!?何時代だよ!?ったく、鳩みたいな顔して」
と失望をあらわにして、いつものように手の甲を口元に当てて苦笑した。
「じゃぁ、弓矢に付け文を」と恐る恐る伝えると
「ますます時代遡ったな?」と吹き出した。
「だぁーかぁーらぁー、その秘めたる思いを回りくどく伝えてきますってば。
 だいたいいつも毅然としてる先輩らしくないですよぉー。」
柚の言葉にほとほと窮したのか仁科の眉根が下がった。
「まじで伝えてくれるの?でも、回りくどいのね?」
仁科はまた苦笑いを浮かべた。
「まじ。まじ。はい、はい、お名前は?」
柚は仁科の反応などおかまいなしに小さな鞄からペンとメモ帳を取り出して
「全て吐いて、楽にならないか?」と詰め寄った。
仁科はこらえきれず「刑事かよ!?」と吹き出した。
「白状するよ。白状します。俺が、ずうっと真意を伝えられなかった
 ……勝手にカノジョと思いこんでいたのは、
 ……実は……宮原柚だよ」
柚は心の底から驚いて絶句した。
「え!まさかの同姓同名?」
「おい、おまえ、もしかして今、俺を猛烈に弄んでるだろっ?
 観客もいないのにふたりぼっちで漫才してどうすんねん!?」
「ほぉっ?」
実は、本当に仁科は柚に恋していた。
「宮原。ピンとこないかもしれないし、
 俺に対してなんの感情もないかもしれないけれど、これからも………。
 俺が大学通うようになっても、こうして会ってくれるよな?
 できることならカノジョと公言したいけれど無理そうだものなぁ」
柚は面食らってフリーズしてしまった。
仁科は「はぁ?、でも、気持ちがさっぱりしたよ」と言って、
先程の柚と同じようにがっくりと頭を落として額を展望台の柵に押し当てた。
「え?と…」柚の声に仁科は柵に頭を付けたまま左に顔を向けた。
「なに?」
「え?と…光栄です」
「え!?」
「じゃぁ、他の人たちに、わたし仁科先輩のカノジョなんだぜベイビーとか
 言っちゃってもいいわけ?」「う?ん、言い方が変だけど公言してもいいよっ?」
「鼻?たーかーだーかー」歌うようにそう言うと、
踊るようにカラダをクルクルと回しはじめた。
柚には嬉しいことがあるとクルクル回るという奇妙な癖があるのだ。

※読者諸兄はそんな奴がいるものかとお思いになられることだろう。
だが、筆者の知人にもひとりだけ同じ癖を持つ者がいる。

柚がふざけてカラダを回すとサーキュラースカートが綺麗に広がった。
このスカートは裾が綺麗に広がるように出来ているのだ。
その時、エレベーターのドアが開いて茨城から来た観光客たちが現れた。
「あんれまぁ、いぎなお出迎えだ!」
「たまげだなぁ!」
柚はピタリと動きを止めると慌てて仁科に駆け寄り、
手首を掴んでエレベーターに駆け込んだ。扉が閉まる間際まで拍手が聞こえた。
「あー!恥ずかしかったぁ!」
真っ赤な顔をして呼吸が乱れている柚を抱き寄せると
仁科は柚の唇に唇を重ねてきた。
柚はあまりに唐突な仁科の行動に驚いて目を見開いたが、
やがてうっとりと目を閉じて、自然に仁科の肩に手を回していた。
そして、カラダの力が抜けて仁科にもたれかかったところで
エレベーターのドアが開き、先程の茨城から観光に訪れた人たちの仲間が
抱擁しあう二人を見て「おおおお!」と歓声を上げた。
今度は仁科が慌ててまだぼんやりしている柚の手を取り
エレベーターから飛び出して行った。

【お話しが音楽から逸れたまま、つづく 】

帰り道、ベスパに乗った二人は来た時とは全く違う空気をまとっていた。
柚は、どうせ犯罪の少ない黄昏市の警察のことだ。
パトロールなどしていないだろうとタカをくくって、
来た時と同じように横座りして、カンカン帽みたいなヘルメットを
おでこが見えるくらい後ろにずらして、蕩けるような眼差しのまま
仁科の腰に手を回してピッタリと身を寄せていた。
仁科は、ハンドルを握りながら
自宅で飼っている犬との出会いを思い出していた。
犬の名はひょん。ひょんなことで出会ったからひょんという名前にした。
ひょんは公園に捨てられていた雑種の仔犬で、警戒心が強く、
近づくと鼻に皺を寄せて仔犬のくせに牙を剥いた。
ところが抱き上げるとひと声だけキャン!と吠えたが、
次の瞬間抱き上げた腕の中で胸にすがりつくように甘えてきた。
牙を剥いたりはしないが、どこか、ひょんと柚は似ている気がした。
柚は、とぼけたり、おちゃらけたりして、なかなか心開かず、
長い間、先輩後輩の垣根を超えず、喋ると敬語のままだった。
そんな柚が展望台から砂浜の方に向かって散歩した時は
押し黙ったまま身をすり寄せてきた。
砂浜に腰を下ろして海を見つめていた時も
仁科の胸のあたりに頭をもたれさせて黙っていた。
仁科が我慢出来ずにキスをする度に、
されるがままにまぶたを閉じて受け容れ、
唇が離れると何度も溜め息を漏らして、また胸のところにもたれた。
仁科は柚が愛おしくてならず、髪にも幾度もくちづけをした。
柚は髪の先にまで神経が通っているかのように
唇が髪に触れる度にまた溜め息をついた。
ほんの6〜7時間前まではいつもと変わらぬ柚だったのに、
たった一度唇を重ねただけで彼女は著しい変化を遂げた。
仁科はそんな柚が愛おしくてならなかった。
柚には、来た時と帰り道の景色がまったく別世界に見えた。
海も夕陽もまるで甘い甘いメイプルシロップを掛けられたみたいに見えていた。
実はシロップをたっぷりとかけられてしまったのは柚自身なのであるが、
今の彼女は自分を客観視できなくなっていた。
ベスパは来た時と同じ公園に辿り着いた。
柚はカンカン帽を胸に携えてと子供じみた喋り方で
「今日、柚にしてくれたようなこと、他の人にしちゃやだ」と言った。
「誰かれかまわずするかっ!」と仁科が笑った。 柚が甘ったれた声で
「じゃ、も一度誓いのキスして」と俯いて言うと、
仁科はベスパから降りて柚を強く抱きしめると、大人のキスをした。
その時であった。又しても、塾の帰り道の夢路と彩音が公園の前の道を通りかかった。
二人はとんでもなく刺激的な光景に出くわして呆然とした。
「ねーねー、収まるところに収まるってさ、こういうことを言うのっ?
 なんか微笑ましいなぁ」彩音が仁科と柚を見ながらぼんやりと呟いた。
どうやら彩音と違って、夢路は偶然に出くわしたこの光景に
予想外にショックを受けたようだった。
実は、意外なことにぽっちゃり体型の彩音には恋人がいるが、
スレンダーでメガネを外すと男子から「おお!」と言われる彩音には
特定のカレはいなかった。 夢路は恋愛に対してはまったく奥手だったのだ。
おそらく第3者が見たら、凡その人は夢路のほうが男子からウケるように見えるだろう。
だが、現実には彩音に告白してきた男子の方が多かった。
彩音にとっては失礼な言いようだが、彩音と比べて、
夢路はおそらく特別な人がいそうに見えたというのが理由なのかもしれない。
彩音は何も答えない夢路に顔を向けて驚いた。
夢路が放心状態から醒めぬまま頬に大粒の涙を流していたからだ。
その涙の理由は彩音はもとより、実は夢路本人にもわからなかった。
冒頭で書いた通り、柚は中1の時から夢路に恋にも似た憧れの気持ちを抱いていた。
そして、実は夢路も柚に対して恋愛に似た感情を持っていた。
では、それが同性愛なのかというと、それとも違う。
疑似恋愛というものなのかもしれない。男女間にありがちな打算も駆け引きもない、
なのに恋愛感情にとてもよく似た思い。
それを無色透明な恋とでも言えばいいのだろうか。
夢路は、いつまでも、柚と子供の時間を共有して、じゃれあっていたかった。
だけれど、今、それを仁科によって奪われてしまったような気がした。
夢路は深呼吸するとメガネを外してハンカチで涙を拭いた。
「あれ?どうしたんだろ?わたし?感動の涙かな?」
夢路は笑って自分の気持ちをごまかすと、彩音に向かって
「おじゃま虫撤収!」と言った。
彩音はなんとなく夢路の気持ちがわかるような気がした。
彩音の中にも、柚にはいつまでも変わらないでいて欲しいという気持ちがあった。
それが偶然にして、変わってしまう瞬間に立ち会ってしまったような喪失感があった。
ただ、夢路と違って、彩音にとっての柚の位置づけは最高の親友であって、
恋愛感情はない。2人の奇妙な喪失感には少しばかりズレがあったが、
兎にも角にも2人はとぼとぼと道を変えてそれぞれの自宅に向かった。
時は流れて3月26日。とうとう卒業生主役のさよならコンサートが行われる日になった。
この日、柚たち在校生はスタッフに徹して、卒業生を輝かせてあげるわけだ。
海辺之学園では、軽音部だけでなく、全ての部活に於いて、
在校生の春休みの前日は、卒業生が主役で、
在校生がそのお手伝いして様々な催しをするという慣わしがあった。
仁科のいた演劇部では卒業生だけの芝居をすることになっていた。
勿論在校生は黒子に徹するわけだ。
体育会系では卒業生たちと在校生たちのの対抗試合が恒例だ。
野球グランドではあのOLこと大野惠梨がやけに短いスカートの制服で
始球式のピッチャーを務めて場内を湧かせていた。
「大野はなんだか艶かしいなぁ?。制服がコスプレにしか見えんもんなぁ」
とコーチが呟くと、マネージャーが思い切り顔をしかめた。
ブラスバンド部やチアリーディング部やダンス部は体育会系の連中と
絡みがあるので体育館を使用しない。
問題は卓球部やバドミントン部だが、
お先にやらせてもらいますからと譲歩してくれて、
運動部の後で、演劇部、軽音部の順で演目が進み、
軽音は大トリで使わせてもらうことになった。そして、
放送部からも6人の卒業生がMCで呼ばれた。
演劇部の卒業生は9人、仁科の脚本はシュールだった。
そして、優しいキャスティングだった。
今までは脇役に徹してきた仲間を主役に据えて、
比較的に主役を務めていたことが多かった者を脇に据えた、
まさに花道を作ったとも言える演出だった。
そして、軽音楽部のコンサートだが、
前述の通りコミカルなバンドが多いのが特徴の卒業生たちは、
クリスマスコンサートと同じ順でブッキングされた。 ただし、
今回は演出は以前より華やかに見せるために様々な工夫をしたようだ。
全員ロボットのような衣装で、ゴスペル調の下ネタ満載の歌を唄うアカペラグループ、
シーモネーター5人には3人の黒人の女性コーラスグループが応援に来ていた。
一体何処から呼んできたのか謎過ぎて、場内がざわめいた。 どうやら 、
黒人女性たちは日本語がわからないらしく
下ネタ満載の詞を笑顔で声も高らかに歌い上げスィングしていた。
やたらに艶っぽい女子3人のボーカルが、
夜の匂いが立ち込めるような演奏をするEg、B、D、Key、Saxの男子学生を後ろに従えた
P!nk salon special総勢8人だが、シーモネーターたちに負けじと
80年代ブラックコンテンポラリーと呼ばれた音楽を演奏した。
男子学生の大半の生唾を飲む音が聞こえるほどセクシーなステージだった。
そして、軽音部というより、ただのマイケルジャクソンのモノマネ芸人としか
言いようがない舞蹴瑠寂聴改め、マイケル寂聴だが、やはりダンス部全員を後ろに従えて、
最後は競泳パンツ1枚になり電子治療器を使って、まるで感電しているかのように踊るという
何度見ても抱腹絶倒のステージを繰り広げた。
ちなみにマイケルは本当に寺の息子で仏教大学に行くことが決まっていた。
マイケルを見つつ暗い客席で、元担任教師が
「寂聴………ちきしょー、いい芸を見せやがるなぁ」と的外れな嘆息を漏らした。
次が、ボーカルは1年の幼げで可憐な女子、演奏するのはバイトに明け暮れ疲れきった、
やけにおじさんくさい3年男子4人のCuty Gold+アルファの5人だが、
彼らは観客に向かって「春休みになったお陰でバイトに専念できてありがたいです」
と言って笑いを誘った後、
『疲れていないあなたって素敵』というとてもいかがわしい歌を1年の女子に唄わせて、
いつもより演奏が活き活きとしていた。
18歳にして、恋人が出来るのは夢の夢と諦観していた電子音を多用する不思議サウンドの
イカズゴケミドロだが、3人全員が、晴れてボーイフレンドができたことを発表して
みんなから祝福を受けた。いつもダークな曲を流していたはずが、
この日は弾けるように明るい音楽に様変わりしていた。
柚たちのバックでドラムとギターを担当してくれた2人がいる1969年から
タイムワープ通学していた正統派ハードロックバンド、SECOND HAND'Sの4人は
元の時代の大学に入学するわけなのだが、
すぐに安保闘争の波に呑み込まれていくだろうことを悟っていた。
そして、ラストステージ、ディスコ全盛時を彷彿とさせる音楽を奏でる
ホッピー小川元部長率いるMARS WING&FIGHTERは、前日在校生たちが体育館に
ミラーボールを取り付けてくれたおかげで完全なる70年代ディスコを再現した。
体育会系の部員も文化系の部員も帰宅部の学生達もみんながリズムに身を委ね、
海辺之学園らしい別れのフェスティバルとなった。
ホッピー小川の求心力の成せる技であった。
みんなが踊り疲れた頃合を見計らって放送部の6人が順にナレーションを入れた。
「さぁ、楽しい時間はあっと言う間です。
 皆さんともお別れの時間が近づいてまいりました。」
「ラストはMARS WIND&FIGHTERと卒業生オールスターズの皆さんが、
 粋な計らいをして下さいますよぉ。」
「1970年代半ばから日本全国のディスコに集まる人々が
 異様に盛り上がる時間帯がありました。それがチークタイムです。」
「チークって言うのはほっぺたのことだから、頬が付くほど身を寄せるんだね?」
「そのとおり、チークタイムにかかる曲は要するにラブバラード。
 1990年代にマハラジャ全盛期到来時にはほぼ消えてしまっていたチークタイム。
 そんな当時の曲を演奏してくださいます。」
「特別な人がいらっしゃる方も、海辺之学園での6年間、
 ボーイフレンドガールフレンドに恵まれなかった方も、あ、わたしだ」
ここであちこちから笑いが起きた。
「さぁ、先生方御公認です!古き良き時代に思いを馳せつつ、
 公序良俗の反しないかぎり!もう好きにしてください!」
「おい!男子ー!女子ー!誘われたら断るの禁止な?」
ホッピー小川が叫ぶと男子女子両方から歓声が湧き起こった。
「ステージにいないおまえらが羨ましいぜ!
 1曲目は『you make me feel brand new』だ!」
オールスターズと言っても、ホッピー小川のバンドメンバー以外は
各バンドのボーカリストのみだ。他のバンドの楽器担当者はステージにはいない。
イントロが流れはじめると、驚くべきことが起きた。夢路の周りに卒業生在校生混じえて
男子がわらわらと集まってきたのだ。
男子たちは互いの顔を見合わせ、在校生は卒業生に権利を譲り、
卒業生同士はタイムワープ入学している実質上の先輩に泣く泣く譲り、
気づけば夢路たちの手伝いをしてくれたSECOND HAND'Sのギターの井上と
ドラマーの佐久間2人が夢路の目の前にいた。
ぼんやりと惚けたような顔をしている夢路の前で
2人はジャンケンを始めて井上はガッツポーズを決め、佐久間は「ノー!」と頭をかかえた。
カーリーヘアの佐久間が「ちぇっ!悔しいけれど俺が先になっちゃったよ。
断らないでな?」と夢路の手を引いて
ラブバラードに身をゆだね2人のカラダは急接近した。
夢路は自分の心臓の音が相手に伝わるかもしれないと
不安になるほど胸を高鳴らせていた。
佐久間は「実は井上も俺も君と会った瞬間同時に惚れちゃったんだ。
 でも、俺たちに明日はないからさ。悔しいけどいつか都内の何処かで
 66歳の俺と会うかもしれないな。お年寄りには優しくしろよ」
と言って照れくさそうに笑った。
音楽が途切れると、彼は一瞬強く夢路を抱いて、肩を掴んだまま離れて
「ありがとー。次は井上だ」と静かに離れた。
2曲目は『ENDLESS LOVE』が流れはじめた。
「夢ちゃん」一言だけ呟いて井上は夢路の腰に手を回した。
「佐久間先輩から聞いたけれど嘘みたいです。ホントに嘘みたい」そう言うと、
夢路は照れくさそうに井上の肩に細長い指先を置いた。
「俺は、ずっと、言わないでおこうと思っていたけれど、佐久間は言ったんだね?」
佐久間も照れに照れていた。
井上はもっと照れていた。
「佐久間に合わせたけど、俺は夢ちゃんのバンドの手伝いに行って
 夢ちゃんを知ったわけじゃないんだ。君が中1の時から見ていたんだ。
 ずーっと。俺、ロリコン?って悩んじゃったよ」
お互いに身を寄せて、しかし相手の頭越しに、
相手の肩越しに別々の方向に顔を向けていた。
なのに気持ちは通じた。 井上の肩に両手を添えたまま夢路はひとしずく涙を流した。
夢路の恋は、1曲目のイントロで始まり、2曲目のエンディングで幕を閉じた。



【第2話おしまい。第3話につづく】
2017年9月6日 09:14

『バンドの物語』(第3話)



春休みが終わり、柚たちは高校2年生になった。軽音部の部長は、
ホッピー小川からネモ艦長こと根本ニャン吉に代替わりした。
もっとも部長はお飾りのようなもので、実務をこなすのは2年の副部長だ。
例えれば部長は象徴天皇、副部長が総理大臣と言うところだろうか。
「おまえらー!小川さんと違って、わたしは甘くないわよっ!
 でも、一部の男子には甘いわよっ?」
天皇根本、相変わらずオカマキャラ全開であった。
副部長は学生なのにOLに見える、あの大野絵梨が務めることとなった。
これには誰にも異論がなかった。 そして、新しく入部してきた1年生たちは、
ほとんどがコピーバンドで、6グループ23人、その中にタイムワープ入学が7人いた。
軽音部では、大きなコンサートは年に4回しかない。
春の野外コンサート、秋の文化祭、冬はXmasコンサート、
そしてラストが卒業生のサヨナラコンサート。 あとは、その合間合間に視聴覚室で
土曜日の度に有志3バンドくらいでミニライブをするのと夏合宿が行事だ。
5月の或る日のカフェCOTTONの店内、相変わらず小さく切ったトクホンを
左右のこめかみに貼り付けたママが、白い絣の着物鶯みたいな色のエプロン姿で
カウンターの中にいた。柚も制服にやはり鶯色のエプロン姿でカウンターに腰掛けていた。
「暇ですよねぇ」頬杖ついて柚がぼやくと、ママは背筋を真っ直ぐに伸ばして、
入り口を見つめたまま「バイト料同じなんだから暇な方が楽じゃな〜い?」と言った。
柚が顔を上げて「えー!忙しくたって色々な人の顔を見たり
 お話し聞いてる方が楽しいですよぉ」
と言うと、「柚!偉い!もー決めた!あんたに60年後この店譲る!」と
ママがやっぱり真っ直ぐ入り口を見たまま嬉しそうに笑った。
しばらく頭の中で計算して「そしたら、わたし76じゃん!」柚の言葉にママは失笑しながら
「どうでもいいけど、あんた計算遅い!あのね、金曜日っていうのはね、
 お勤めしてる人たちは居酒屋さんとかに同僚と行くの。それから来るのかもね」と言った。
その時である、扉が開いて初老と言ってもいい年代の紳士が2人お店に入ってきた。
「やぁ、懐かしいなぁ」
「探すの大変だったぁ」
「やっぱ、迷子町だわ」 2人はハンカチで額の汗を拭いながら口々にぼやいて、
カウンターに腰掛けるとモスコミュールとジンバックをオーダーした。
柚がお通しのカシュナッツを出すと、2人はしげしげと柚の顔を見つめた。
1人は役者の本田博太郎みたいな怪しげな紳士で、渋いと言えば渋めの紳士で、
もう1人は優しげな、そうモト冬樹のような雰囲気の髪が薄い紳士だった。
ママは飲み物を2人の前に置くと「井上くん、佐久間くん、お久しぶりっ」とニッコリ笑った。
「ママのお知り合いですか?」柚がママの耳元で囁くと
「柚のお知り合いでもあるわよ」とクスクス笑った。
「ギターは上手になったかい?」髪の薄い紳士に人懐っこい笑顔で話しかけられると、
柚は大いに混乱した。本田博太郎の方は、クックックッと俯いて笑った。
「THE SECONDHAND'S のドラムだよ。俺、佐久間だよっ。こいつが井上っ」
モト冬樹が苦笑いしながら薄い髪をかきあげた。
「えーっ!!?井上先輩と佐久間先輩!!
 あの髪が腰まで長かった井上先輩とカーリーの!?」
1969年から海辺之学園にタイムワープ通学していた時は高校3年生だった2人は
卒業と同時に47年も年齢を駆け上がっていたのだった。
「俺はサラリーマンだったけれど、去年めでたく退職したよ。
 井上は品川の旗の台っていう所でバーをやってるんだよ」
とまるで学生のような話し方で柚に近況を教えてくれた。
井上はモスコミュールから口を離して深い眼差しで柚を見つめながら
「大人になったらおいでね」と微笑んだ。
(あぁ、この深い眼差しに夢路は口にはしなかったけれど、内心まいっていたんだ。
 眼差しだけは歳をとっても変わらないんだなぁ)と思った。
でも、柚には人の目をじっと見つめて話す井上より、
いつも困ったような苦笑いを浮かべている佐久間の方が気楽だった。
柚の心は、数ヶ月前まで2年先輩だった2人が初老の紳士になって
親しげに話しかけてくるというこの状況をいきなりは飲み込めなかった。
不思議に思ってママに「どうしてすぐに井上先輩と佐久間先輩ってわかったの?」
と尋ねると「何年COTTONやってると思ってんのよ!」と大いなる自信があるようで
自分の左胸のあたりをトンと叩いた。
「何年だっけ?」と聞くと、ママは「4年。テヘ」と答えて顔を両手で覆って、
はにかむふりをした。
柚が「短いよね?短くないですか?短いですよね?」と元先輩に同意を求めると、
ママは「おだまりっ」と柚を一喝した。
それから、井上と佐久間は、ぽつりぽつりと卒業以降の人生を語ってくれた。
バンドメンバーは別々の大学に入ったと同時に学生運動の波に飲み込まれ、
たちまち空中分解。柚にはさっぱりわからないが、
それぞれが思想の相違なるものに翻弄されたのだそうだ。
「面白いんだぜ。意外とね、俺みたいに貧乏な家の人間は貧しい故に
 親の期待に応えようと一流企業を目指してさ、
 それなりの家柄の人間が学生運動に目覚めちゃったりね」
そこまで話すと佐久間はハッとして言葉を止めた。すると、
井上「うぶだったんだね。そういう奴は、
 こうしてうらぶれるわけさ。クックックッ」と笑った。
一瞬の気まずいムードが柚の「井上先輩って歳をとっても怪しさ全開ですね!」の一言で
笑いに転じた。「星野さんと大島さんは?今でも4人で 会ったりするんですか?」
大人の感傷はおかまいなしに柚が尋ねると、2人は互いの顔を見合わせて
「2人ともね、もういないんだ。もう会えないな」と佐久間が答えた。
もう1人のギターとボーカル担当だった星野は親の跡を継いだのだが、
その会社が倒産して56歳の時に自殺し、ベースの大島は47で自宅の玄関を出たところで
心不全で亡くなったとのことであった。有名な広告代理店に勤務していたのだが
所謂過労死だろうということであった。
「今日はその大島の命日だったんだよ。2人で墓参り墓参りしてきた帰りなんだ。」
柚は、井上の言葉を聞いて、人生はなんて儚いんだろうと思った。
Xmasコンサートと卒業コンサートでの若さの真っ只中にいた2人に
そんな未来が待ち受けていたことを知って、泣きたいのをぐっと堪えた。
その時、黙って3人の話しに耳を傾けていたママがカウンターにお猪口を六つ並べた。
綺麗な模様の江戸切子のお猪口には揺らせば零れるほどの
冷えた日本酒が注がれた。ママは「柚、あなたも飲みなさい」と言った。
「ママ、ありがとう」井上が感謝して頭を下げると、
佐久間が「帰る時までこのままにしとこう。で、帰る時さ、おまえが星野のを飲めよ。
 俺が大島の代わりに飲むから」と佐久間が寂しげに笑った。
3人がお猪口を上げた時に、危うく柚は乾杯と言いそうになった。
そうか命日なんだ。心の中で頷いて、お酒をなるべく味わわないように
一気に飲み干すと、柚が大真面目に「苦いなぁ……人生のように」と呟いた。
それを聞いて3人が同時に笑った。「ナマ言ってんじゃないよっ」ママが窘めると、
井上はニヒルな笑いを浮かべて「そのうち、その苦さの中に美味しさが見つかるかもね」
と言った。
「そうだねぇ。苦々しいことが沢山あったけれど、捨てたもんじゃないってことも、
 甘味や旨みもあったかなぁ」 佐久間も自分に言い聞かせるように呟いた。
そこに、扉が開いて私服の夢路と彩音がやって来た。
「おーい!柚ー!ママー!」2人は胸のところで手を振りながら入ってきて、
カウンターに腰掛けるとソーダ水を注文した。
佐久間と井上は自分の娘でも見るような慈愛に満ちた眼差しで
微笑みながら2人を見つめた。 視線に気づいた夢路と彩音は屈託なく紳士2人に
「こんばんは」と挨拶した。 そして、すぐに柚の方を向いて
「なんで制服なの?」 「そうだよ!春休みじゃん」といつものお喋りが始まった。
「なんかね、ある種の人たちには制服の方がウケがいいんだって」
「そーなんだ!?」
柚と彩音の会話中、夢路の頭の中に何か引っ掛かるものがあった。
隣の紳士だ。 目の前のボトルが並んでいる棚の中は鏡になっていて、
そこに佐久間と井上の顔がボトルの隙間にチラチラと見えるのだが、
どこかで会った気がする。
夢路は膝のところに両手を付いて丸い椅子をくるりと回転させて、
井上の方を向いて尋ねてみた。
「あの違っていたらごめんなさい!もしかしたら
 …………井上先輩と佐久間先輩ですか?」
シニアになってしまった2人はニッコリと微笑んで立ち上がると、
佐久間が 「夢ちゃん。彩音ちゃん。」と声をかけ
「48年待ち遠しかったぜっ」と井上が頭を掻いた。
夢路の背中越しに彩音も2人を見てびっくりして
口がポカンと開いたままになってしまった。しかし、柚も感じたとおり、
歳をとっても眼差しは変わらないということを夢路と彩音も感じた。
2人も立ち上がり交互に入れ替わりハグを交わした。
「この歳で10代とハグしちゃったよ!」
佐久間が明るく声を上げるとみんな笑った。
夢路と彩音にとってはほんの数ヶ月だが、
佐久間と井上にとっては1969年から2017年まで、
48年もの月日が流れていたのだ。
夢路と彩音の気持ちを描くことはとても難しい。
時空を飛び越えた邂逅の驚き、そして懐かしさ、
人が歳をとり変わってしまうことの寂しさ、
変わっていない心に対する喜び、
そういったあらゆる感情をかき混ぜられたような気持ちとでも
言えばいいのだろうか。いくら時空を飛び越えた海辺之学園とは言え、
その学生たちの中に於いても、みんなが皆再会するわけでは無い。
これは稀有な再会だったのだ。
6人ともいつまでも話しが尽きなかった。それもそのはず、
48年の月日を往復するわけだし、
そこに未来の話しまで入って来るのだから尽きるわけもない。
しかし、柚たち3人には門限がある。
別れを惜しみながら柚たちと井上たちは互いの連絡先の交換をした。
ママが柱時計を見て、大貫妙子の『Shall we dance』を流すと、
佐久間と井上が「おっ『王様と私』だね」
「デボラ・カーだな」とうっとりと目を細めた。
「次に会う時までは社交ダンス憶えておこうか?」柚がそう言うと
「せめて門限がシンデレラの時間になる頃に踊ろう」と井上が笑った。
「先輩!次に会う時までは社交ダンス憶えておこうか?」柚がそう言うと、
「今門限何時?え?10時?早いなぁ。せめて門限がシンデレラの時間まで
 延長される頃になったら踊ろっ」と井上が笑った。
別れを惜しみながら柚たちと井上たちは互いの連絡先の交換をした。
そして柚と彩音は先にお店を出た。夢路は扉の前で井上と佐久間を見つめて
「先輩!あの日のダンス、とても素敵な時間でした!」
そう告げるとお辞儀をしてから出て行った。
2人がにんまりとして余韻に浸っていると、もう一度扉が開いて、
メガネを外した夢路の上半身だけが現れて2つ投げキッスが飛んだ。
そしてまたすぐに扉が閉まった。
「チキショー!」
「まいったなぁぁ!」井上と佐久間はまた恋に陥りそうになった。



【第3話おしまい。第4話につづく】
2017年9月6日 09:17

『バンドの物語』(第4話)



カフェCOTTONから柚たちが帰った後、井上と佐久間はまだ酒を飲んでいた。
そこに、ギター教室でスパニッシュギターを教えている向谷と、
今は施設の警備員だが、遠い昔、歌謡曲全盛期、まだ歌手の後ろで
フルオーケストラが演奏していた時代、サックス奏者だった、
みんなからセルマーさんと呼ばれている謎の老人が訪れた。
向谷とセルマーは、井上と佐久間が、ほんの数ヶ月前までいつまでも
COTTONの窓辺の席で柚たちと音楽の話しをしていた高校生だと聞いて
咳き込むほど驚いたが、そこはミュージシャン同士。一般の人々には理解し難い
魂のレベルの繋がりがあるようで、たちまち何十年来の親友のように語り合いはじめた。
井上たちと向谷の歳の差は実に30年、なのに2人が敬語で話しかけてくるので、
向谷は恐縮しきりだった。そんなやり取りを見つめながら、COTTONのママは、
やっぱり迷子町でお店を始めてよかったと一人しみじみと実感していた。
向谷は仕事でギターを弾き、セルマーは既に趣味になっていたが、
未だに毎日サックスを吹いていた。
セルマーがまるで当然かのように井上と佐久間に
「勿論、君らもまだやっているんだろ?」と尋ねると、
2人は互いの顔を見合わせてバツが悪そうに頭を掻いた。
「僕は…私はもう全然叩いていません。静かな住宅街に住んでますからねぇ、
 サイレントドラムもあれはあれでけっこう響くんですよ。でもね、
 井上は自分の店が暇な時に弾いているみたいですよ」
佐久間が言うと井上は照れくさそうに「よせよぉっ!」と親友の軽口を制して、
「お2人とは比べようもないです。お遊び程度ですよ。ただ、
 私も向谷さんの影響ですかねぇ、歳をとってから
 パコ・デ・ルシアを聴いて愕然としましてね、
 エレキからアコースティックに切り替えまして、
 勿論、今でもベックのコピーとかもしますけどね、いや、
 全然大したことないんですけどね、弾いてます」と言った。
青年のようにはにかむ井上を見て、セルマーが嬉しそうに微笑んだ。
「佐久間さんも、今でもやればすぐ勘を取り戻しますよ」
向谷がやっぱり真顔で言うと佐久間は目を見開いて
「とんでもございませんよー!」と顔の前で掌を左右に振った。そして
「仲間を見ていてもコピーの連中は趣味にとどめて、みんなやめてますね」と
困ったような笑顔を見せた。
「そこにいくと、なんだろうなぁ、柚たちは楽しみだなぁ」
セルマーはどうやら本音で呟いているようだ。
「紛いなりにもオリジナル沢山持ってますからねぇ」と向谷が言うと、ママが
「え!まがいっ!?」と目を剥いた。その顔を見てみんな吹き出してしまった。
「でもね・・・」
ママが神妙な顔をして「でもね、あの3人はなんだか好きなの。
 凄い感性だとわたしは思うの。それはわたしがバイトで雇っていて
 親しくなってるから?身内びいき?」と4人に訊ねた。
すると、向谷は急に真面目な顔をして
「ううん。さっきのは冗談っ、あの子達はいいと思ってますよっ」と言った。
それを継いで、セルマーも「俺もあの子たちは確かに磨けば光ると思うんだ」と言い、
佐久間が「彩音ちゃんは痩せたらかなり可愛いいと思うんですよ?
 どうでしょう?え?ハズした?」と閉じたところで、また笑いに転じた。
井上が「夢ちゃんは優等生タイプでしょ?真面目なところがね、
 一生懸命なところが可愛くてねぇ。あーどうしよう。やっぱり俺あの子好きだわ」
と言うと、ママが「自分が偏ってるじゃないのねっ!」と
ツッコミを入れるて、又みんな笑った。みんな実によく笑う飲み方をする。
向谷は仕事が仕事なだけに真面目に「彩音ちゃんはセンスがいいというか、
 他人の音をよく聴いて包み込むタイプですよね」と論じた。
佐久間もそれを受けて 「あー、わかるなぁ、俺もバンドのセンスはベースで決まると
 思ってるんだけどね、あの子はまるで女細野晴臣だよね」と頷いた。
しばらくの沈黙の後「で、柚だな」とセルマーが呟くと、みんなが頷いた。
それからはみんなの柚の褒め言葉だか貶し言葉かわからない寸評が交わされた。
「うん。柚ちゃんはさっぱりわからないね」と向谷がクスクス笑うと、
佐久間も井上に向かって「あの子の曲の時だけはみんな悩んでたよねっ?」と
同意を求めた。
「そうだったなぁ。なんだかね、変な癖があるんだよ。
 作る度にバンドのカラー無視してるしなぁ」井上は大いに頷いた。
「このメロディとこのリズムに、この詞乗せるか!?と思ったりしたけど、
 意外と聴けたりするところが又不思議なんですよ」
向谷が以前、柚に「何を聴いてきたの?」と尋ねた真意が明かされた。
「こういうのは普通こう仕上げるだろ?ってある程度出来る人間は、
 なんて言うのかな、悪く言うと型に嵌るんだな。その方が楽だからね」
セルマーが言うと、井上が憎々しげに 「で、こうしようよ?って言うと、
 こっれがヘラヘラしてるわりにきかん坊でさ、きかないんだよ!これが!」と
記憶が甦ったのか本気で怒っているらしく、みんな大爆笑した。
笑いが途切れたところで向谷が「僭越だけれど、僕達であの子たちのこと、
 なんとか出来ないでしょうかねぇ?セルマーさん?井上さん?佐久間さん?」と、
それぞれの顔を見た。
腕組見しながらセルマーが天井を見上げて「実はね、ぼんやりとなんだけれど、
俺もそれは考えていたんだよ。昔のツテなら、まだ無いこともないんだ」と、
枯れた声で言うと「僕も仕事柄それなりにコネはあります」と向谷が言い
「俺も知り合いにPOWERRECORDSのお偉いさんがいるけど
 何か役に立つのかなぁ?」と腕組みして首をひねった。
ママはその光景を見ているうちに自分でもわからない感動で涙が溢れ出てきて
慌てて振り向いてハンカチを目にした。
その時に黙ってブランデーを飲んでいた井上が、「あ、」と小さく声を上げて、
みんなが井上の方を向いた。
「いやぁ、あのですね、うちの店に老舗のライブのマスターが来るんですよ。」と言うと、
向谷が困り顔をして「残念ですけれど、今のライブハウスはダメでしょう?ほとんどの店が
 チケットノルマで食いつないでいるのが現状ですから。
 有名所は既成の有名アーティストしか呼びませんし」申し訳なさそうに囁いた。
「いや、それが、あの新藤浩市さんなんですよ」井上の言葉を聞いても、
実際にはまだ三十路に入ったばかりママにはなんのことかさっぱりわからなかったが、
全員が「え!?」と同時に声を上げた。
ママが「その新藤さんは有名人なの?」と井上に尋ねると、
セルマーが代わりに答えてくれた。
「新藤浩市さんは歳は俺くらいかなぁ?元SBCソディのヒットメーカーでね、
 新藤さんが発掘したアーティストは必ず売れたんだな。ところがだよ、
 何せ昔気質で短気な奴だから会社の上層部と一悶着あってね、
 75年たったかな、会社を飛び出して、ライブハウスを開いたんだよ」
向谷がセルマーの後を継いで喋りはじめた。
「直接は僕も知りませんけれど、先輩たちから武勇伝って言うんですかね、
 伝説を沢山聞きましたよー。新藤さんはソディを辞めても自分のライブから
 有名アーティストを何人も排出してきたんですよね?
 たぶんママも名前を聞いたらわかると思うけれど、The Alfaとか、
 隅山清春とオメガドライブとか、女の子3人のCubicSugar、タラ、河上栄吾、
 パンクのANARCHYHEAD、わ、キリがないや」
ママは俯きながら、スマートフォンで画像検索しながら
「あーあーあー!はいはいはい。わかったぁ!」と首を何度も上下に振った。
「まだ渋谷FLIGHTやってるの?」恐る恐る佐久間が井上に聞くと、
井上が少し困り顔で「やっているんだけどね、ほら、
 ご存知の通りの人だからね、短気でしょ?人が良いでしょ?そこ持ってきて
 十把一絡げみたいなアーティストしか来ないでしょ?
 家賃高いでしょ?渋谷から移転したんだよ」と言うと、
3人ともに「あーあーあー」と溜息をついた。
「今は、ライブじゃなくても発信する場所は沢山あるものねぇ」
佐久間が困ったような笑い顔をすると、みんなも頷いた。
「でもですよ?でもねっ、新藤さんはまだ新しい何かに飢えてるみたいですよ?」
井上が言うと、向谷が「昔のままなんですね?柚ちゃんたちと会わせたいですねぇ?
なんだが化学反応起こしそう。アハハハ」と笑った。
「あの人は未だにどんなに客を呼べない奴でも、
 見どころがあればチケットノルマを課さないんだそうです」井上が言うと、
セルマーが「いや、あの子たちは友達多いからそれは心配ないだろう。
 俺なんか、最初は誰も聴いちゃいないキャバレーのハコバンからだったからな」と
苦笑いを浮かべた。
「また会う時があったら、あの子たちにこのことを伝えてみましょうか?」向谷が言うと、
シニア3人はグラスを高々と上げた。それを見てママもグラスを上げ、
5つのグラスが小さく音を立てた。



【第4話おしまい。第5話につづく】
2017年9月6日 15:35

『バンドの物語』(第5話)



5月。軽音部の野外コンサートが一カ月後に迫っていた。
柚はすっかり軽音部に馴染んで夢路や彩音以外の他のバンドの連中とも
仲良しになっていた。後輩たちからも悪く言えば軽んじられていたが、
良く言えば親しみの 湧く先輩という立場になっていた。 ただ、
相変わらず本番に弱いという欠点は改善されず、内輪ではそれはそれで笑い
が取れて良いのだが、部外者からすれば緊張が客席に伝わってしまって
安心して聴 いていられない処があった。
夢路も彩音も柚のあがり症は場数を踏めばやがては解決するだろうと安心
していた。しかし、直近の野外音楽堂でのコンサートは客席がハッキリと
見えてしまう。果たして柚が沢山の視線を浴びることに耐えられるだろうか?
それが心配だった。
だからと云って、前部長のホッピー小川のように毎度毎度騙してジュースに
アルコールを混ぜのは是非とも避けたい。 ましてや新部長の根本にゃん吉は
意外にも堅物で「同性愛以外の不道徳な事は許さ ないわよっ!おまえらー!
 親の庇護の下にいて飲酒喫煙など言語道断よ!」と、
監視の目を光らせていた。
塾の帰り道、彩音が夢路に「柚ってなんであんなに本番ボロボロなんだろね?」と
言うと、「練習場所でやってる時は平気なのにねぇ〜」と夢路が笑った。
「楽屋名人ってああいうのを言うのかなぁ?アハハハハ
 名人じゃなかった!アハハハハ」彩音が自分の言葉に
自分でウケているので、夢路も釣られてクスクス笑いだした。
「そうだ!COTTONに行こうよ!きっとママがなんかいいアイデア出してくれるよ!」と
彩音が言うと「なんか当たりとハズレが大きい占い師みたいだけど いこっか?」
ふたりはカフェCOTTONに向かって歩きはじめた。
一方、COTTONでは既に柚が不安で潰れそうな胸の内をママに相談していた。
カウンターの上に上半身を伸ばして「ママ〜、怖いよ〜、野外怖いよぉ〜」と
泣きついていた。「ったく、あんたって子わぁ、腹を括るとか、
 開き直るってことができないのかい!?」
ママは夕方以降のつきだしの下ごしらえをしながら下町のおかみみたいに言い放った。
すると何を閃いたのか柚はママに
「ママっ!ママっ!なんか今の言い方!おばあさんみたい」と言った。
「あー、そうかい!?」さすがに本当に怒っているようだ。
そこに扉が開いて夢路と彩音がやって来た。
「ヤッホー」ママは顔を上げるとニッコリ笑って「ヤッホー!」と手を振った。
その時、 柚がまた何か閃いたようで「ママっ!ママっ!」と、声をかけた。
「何?何?」とママが尋ねると、やけに明るく
「今ね!老婆から同級生になってた!」と言う。ママの顔が賢者の顔になっていた。
「はい。試飲してみて。ノンアルコールカクテルだよっ」
ママがカクテルグラスを2つカウンターに並べた。
夢路と彩音は目を見開いてグラスを見ると、わぁっと歓声を上げた。
それを見て「知ってるぅ?アルコールの無いカクテルは『カケテル』って言う…」と、
柚が説明しようとすると、まだすべて言い終えていないところで
「嘘よ」とママが言葉を遮った。まだ高校生の2人にとってはどちらも大人の
お洒落な飲み物に見えた。
「こっちがサラトガクーラーって言ってね、こっちがシンデレラ。
 サラトガクーラーって井上君が好きなモスコー・ミュールから
 アルコールを抜いたのだよ」とママが説明すると、彩音は静かにグラスの縁に
オレンジが乗っているショートカクテル、シンデレラを自分の前に寄せた。
夢路がライムがグラスの縁に乗っているサラトガクーラーを手元に寄せて、
2人はカウンターにグラスを乗せたままカチンと音を立たせた後、
犬が水を飲むような姿勢でグラスに唇を近づけた。
「うっわ、何?この冷たさ?溶けたばかりの氷水みたい!」
彩音がショートカクテルを初めて口にした人にありがちな意見を言うと、
柚は井上のことを思い出しながら「お?いしいぃ。大人の味だぁ」と溜息をついた。
ママは御満悦だ。
「試飲だから無料でいいからね」と笑顔で言った後、 「よ〜し!明日からは昼間は学生向けに超高い値段でメニューに入れよう!
 浪速のあきんどは負けまへんでー!」と固く拳を握りしめた。
それを見て、夢路と彩音は美味しいとは思ったが、
絶対オーダーするのはやめようとも思った。
ママは「そこで本題に移ります!夢ちゃんもあやねんも野外コンサートの話しだね!
 ん?ん?」と目を見つめた。彩音は目を輝かせて夢路の肩を叩いた。
「痛い!痛いの、あやねん」夢路が真面目に痛がっているのもかまわず、
「ほーらー!夢ちゃん!やっぱりママはすごいよ!鋭いよね!」とべた褒めした。
柚から先に聞いていたので鋭いも何も無いけれど、敢えて柚は黙っていた。
ママは「柚っ!2人の悩みの原因はあなたなんだから、
 つまりあなたの悩みを解決すれば、すなわち!
 夢ちゃんとあやねんの心配を取り除くことに直結するわけだよ!
 どーだ!?んー?」と言うと、柚の顎を掴んで顔を上げさせた。
頬が上に上がるとなんて面白い顔なんだろう?とママは腹の底で大笑いした。
「あ?。言われてみればそうかも」顔を上げさせられ過ぎて唇が歪んだまま柚が答えた。
柚の顔から手を離すとママは朝のワイドショーの司会の真矢みきのような感じで、
「夢ちゃん、あやねん?会場に指定席を作って仁科君をそこに座ってもらうのは
 どうかなぁ?あんまりステージに近づきすぎちゃダメよ!
 他の人がつまんなくなるからね?」
「でね、でね、柚は、だね、仁科君だけ見て歌いなさい。
 カレを見ながら演奏してごらん」そう言うと、まるでいい女みたいに
意味もなく片手で髪を後ろに跳ねさせてツンと顔を上に向けた。
「おおおぉぉぉ」夢路と彩音が胸元で小さく拍手の音を響かせた。
「それいってみよっ!」



 

〜Poems〜『ご案内』



こんにちは(。・ω・)ノ゛

なんとなく音楽を後から乗せられそうな、
そんな詩を書くお部屋です。
だから、つまり、
どちらかと云うと、作詞?
多少の字足らず字余りはどうにでもできますから、
思いのままにどぞ( o・ω・)_?イカガ
あなた自身の言葉で、ひとつ、(;´Д`)ハァハァ、
お願い致します<(_ _*)>



あなたの歌がいつか街角に流れるカモノハシ
ヾ(`ε´)ノヾ(`ε´)ノヾ(`ε´)ノヾ(`ε´)ノ
ヒューヒュー








『海辺の定点観測所』



@  そのカフェはまるで定点観測所

     訪れる人は無数の星

     私は煌めきを見上げてる

     黄昏のビーチで 独り貝殻に耳をあてる

     にぎやかなお喋りが聴こえる

     華やかな孤独が顔合わせて

     コンニチハ サヨーナラ  又コンニチハ

     肌触りのいい『優しい』を

     あなたにあげたくて ここにいます

     ここで待っています

A  そのカフェはまるで大きな木

     訪れる人は動物の目差し

     私は言葉を語らずに 同じ目差しで話してる

     白い波頭が招いてる

     みんなで手を振っている

     淋しさを内ポケットに隠して

     サヨーナラ コンニチハ  又サヨーナラ

     ひと刹那で いい感じてくれた?

     ここにいます ここで笑ってます

     music on a beach

     waiting for you

『幻聴』



@  淋しげな歌ばかり この耳に流れてくる

     弱虫な言葉の代わりに 君を抱いてげたい

     耳を塞ぐ指を すり抜け聴こえてくる

     冷たい水の底で 僕を責める咽び泣く声

     嗚呼 いつになったら 心 解かれるのか?

     嗚呼 いつになったら 誰が僕を許すのか?

     教えてくれ

A  明るい日差しの中にいても

     どこか孤独が匂う

     君の淋しさの移り香なのか 幻が聴こえる

     昨夜はどうしてたの?

     答えは闇に投げた

     白い花束よどうか 届かぬ砂浜に着くよに

     嗚呼 いつになったら ほんとに笑えるのさ?

     嗚呼 いつになったら 君は僕を許すのか

     伝えてくれ

     まばゆい光の中にいても影か心に伸びる

     君の淋しさの移り香なのか

     幻が聴こえる

     Baby What do you want? 何を求める?

     耐える夜 諦めの朝に

     十字架を背中に隠し

     戒めの雨に

     御手は 御手は 遠い

     いくつもの波涛の掌が

     早くおいでと招く

     君の淋しさの移り香なのか

     幻が聴こえる

     幻が聴こえる

『情愛の破産者』



@  どんなありふれた景色も

     淋しい記憶を呼び覚ます

     カラダから心だけ抜き去って

     何処かに捨ててしまいたいと思う

     してもらった事のおびただしい数々が

     返せなかった口惜しさを呑み込んでゆく

     わたしは何をしてきたのか

     わたしは何をしていたのか?

     一体何をしていたのだろう

     受けた愛のひとかけらも返せず

     破産者は終わらない冬の夜を彷徨う

A  知らない町に行けたなら

     少しは気分も変わるだろうか

     わたしの憂鬱が感染りませんように

     そっと気配を無くしたいと思う

     無償の愛の数々が

     自由の翼に絡まって

     墜落してゆく

     どんな生き方が残ったのか

     どんなふうに生きるのか?

     そもそも生きていてよいものか

     受けたものをひとかけらも返せない

     破産者は迷宮を巡り歩く

『育ての町 産みの町』



@  詩にも絵にも歌にもならない町

     ソレガ僕ノ町

     堤防の上をとぼとぼと歩いていたら

     子供の頃の僕が川向うで手を振っていた

     「おーい」「おーい」

     「今 何してるの?」

     おーい おーい ねぇ 何してるの?

     優しい大人になれた?

     かっこいい?

     立派になれた?

     正義の味方になれた?

A  箱を並べたような住宅街

     公園 街路樹 道路脇の埃をかぶったタンポポ

     舞台のセットみたいな駅前

     まるでエキストラたちの賑わい

     「おーい」「おーい」「また来たんだね」

     おーい おーい ねぇ何してるの?

     絵描きになれた?

     ゲージツ家になれた?

     みんな幸せ?

     僕は僕になれた?

     うるさいぁ 過去の子 煩わしいよ 過去の子

     川向うで手を振らないでよ

     堤防を降りて 丸い小石を拾って

     川面に投げると3回跳ねて 水に沈んだ

     対岸の堤防に立っていた子供と僕は

     お辞儀をして

     別れた

『立往生行き』



@  立往生行きの観光バスに乗って海を見に行こう

     砂浜に降りて こんがらがった糸に火をつけて燃やそう

     全て燃やして灰にしよう

     飼い主のいない犬のように街を徘徊しよう

     疲れてしまったら さびれたカフェで心を落ち着けよう

     黄昏の頃になったら

     声に出してみよう

     小さな声でもいい

     生きていていい

     生きていればいいんだ

     何も考えなくていい

     そうだ!ガイドが笑顔で言っていた

     立往生は観光スポットはありません

A  立往生行きの観光バスに乗って海を見に来たよ

     その後行方知れずのわたしを探しに

     砂に『自分』と書いたら波にさらわれた

     正座をして泣こう

     雨の中の鳥のように心を無くそう

     見知らぬ駅の雑踏に立って

     ぼんやりと心を落ち着けよう

     黄昏の頃になったら

     呟く程度でいいから

     声に出してみよう

     生きていていい

     取り敢えず遣り過ごそう

     考えると躓く

     そうだ!ガイドが行っていた

     立往生は地図に載っていません

     なんにも楽しくない立往生行き観光バス

     乗客は無口

     ドライバーは人形のよう

     ガイドだけが饒舌

     名所旧跡学ぶものもない立往生行き観光バス

     天気の悪い日だけのツアー

     車窓に映るつまらない景色

     ガイドだけは饒舌

     「このバスはまもなく?高度2万mまで上昇致します」

『淋しいハンター』



    闇に白いつまさきが浮かんでいる

    アンクレットが揺れている

    なんのためのペティキュアだったんだろ 愛情はたぶんないのね

    愛がそこにあるという妄想があっただけ

    あなたはハンターよろしく

    お酒の席で誰かに成果を語るかもしれない

    かけた時間の元を取る

    あなたには愛は足りている 他の場所に隠してる

    恋のきざはしだけでいいのかも

    わたしには恋らしきものがあったけど また愛はなかった

    すれ違いながらいだきあう 滑稽な大人と大人

    天井の鏡にぼんやりと映る あなたの背中とわたしの視線

『享楽的な人』



    なーんにも見えないほど暗いのはいや

    だから なーんにも見えないほど明るくするのね

    そして 華やかな孤独に身をゆだねるんだ

    朝が来たら 虚しいとしても

    誰にでも気安く

    誰にも心許さない

    あなたは 享楽的な人

    It's not the spotlight そんな歌がありました

    孤高の だらしない人

    ♪.:*:'゜☆.:*:'゜♪.:*:'゜☆.:*:・'゜♪.:*:・'゜☆.:*:・'゜

    闇夜でサングラスをかけて なんでよ?

    真昼にフラッシュを焚いて

    そして 見開いた目で 内側を見るんだ

    そこに空っぽがあるだけでも

    誰もが経験しないありふれた切なさ

    あなたは享楽的な人

    It's not the moon light そんな歌がありました

    あなたはだらしない人

    なのに崩れない

    あなたは堅物の酔っぱらい

『わかって』



@  背中の空いたシルクのドレス なんだか心許ない

    夜景見下ろすバーラウンジも緊張しちゃって

    脱いだヒール 片手で回しながらここを出ててゆきたい

    朽ちたウッドデッキの上で レースのカーテン揺れる窓辺で

    仲間が手を振って 待ってるの

    Baby please、please know me

    わたしは 誰のものにもなりたくない

    大切な孤独を胸に秘めて

    誰かの大切な孤独と話してたいの

    丸い淋しさには真ん丸な癒しを 四角い悲しみには四角い笑みを

    木綿みたいな肌触りの言葉でポッカリ空いた互いの胸を埋めてゆきたいの

    その街はいつも黄昏時 黄昏の日差しは誰の顔も優しくするでしょ?

    朝陽は恥ずかしいからいや 夜は淋しいからいや

A  背中の空いたシルクのドレス なんだか心許ない

    約束強いる人の電話 なんだか息苦しい

    心ここにない夜のドライブ 窓の外の都会は嘘みたい

    メーク落として鼻歌まじりのお散歩 海までゆきたい

    着飾った言葉のない いつものメンバーが笑いながら手を振って待ってるの

    Baby misunderstand me

    わたしハートで話したかった

    抱かれる度に心が痛くて 会えない誰かに心を求めてた

    三角の痛みには三角の癒しを

    星型の過ちには星型の赦しを

    木綿みたいな誠実な言葉で埋めて

    互いの胸に空いた隙間を

    埋めていきたいの

    集う時はいつも黄昏時

    黄昏の日差しは眩しくないでしょ

    朝陽は残酷でしょ

    夜はせつないでしょ

    だからいつも黄昏

    人はあらかじめ孤独よ

    だから出会いたいの

『廃盤』



@  聴いたことがあるかな?いい曲なんだよ

    あなたがターンテーブルにレコードを乗せた

    針がチリチリと音を立てて

    イントロが流れると

    音がしただけでホッとした

    どんな思いで作られた歌だろう

    聴いた人たちの心にどう届いたのだろう

    いい歌ですね

    いい歌だろう

    でもこれは廃盤なんだ

    沢山売れなくても良い本があるように

    沢山は売れなかったけれどいい歌はあるよ

    でも廃盤なんですね

    でも廃盤さ

    懐かしむ僕と新鮮に感じる君が今も聴いていると伝えたいね

    詠み人は知らない

    大切に埃を拭いて今も誰かが耳を傾けていることを

A  古くてもいいだろ?僕みたいに

    あなたがキッチンから冷えたハーブティーを運んできた

    心がチリチリと音を立てて

    ほころびそうな弱さが出そう

    でも言わないなんにも言わない

    懐かしいようで

    新鮮だろう

    でも廃盤なんですね

    そう廃盤さ

    終わろうとする僕とまだこれからの君が

    聴いているのがフシギだね

    詠み人は知らない

    新しい観客がここにいることを

    でも廃盤なんですね

    廃盤でも針を落とせば音を奏でるさ

『みんなétranger』



@  別の電車に乗っただけでまるで異国

    わたしがétranger?

    みんながétranger

    胸の中の空気を吸い尽くされるような淋しさ

    ビルの窓に ネオンに 街灯に 明かりが灯る度に

    痛み伴う孤独が忍び寄ってくる

    着信は出ない

    メールは開かない

    誰と競う我慢比べ?

    空気が薄いから何度もする深呼吸

    みんなの国をわたしが彷徨っているの?

    わたしの町にあなたたちが迷い込んだの

    だとしたら

    みんなétranger

A  目の前の7人がけのイスに腰掛けた人

    あなたは帰るの?

    あなたは行くの?

    掌に乗せたモバイル何を見て何を聴いているの?

    ビルの窓の人影 店に飲まれる人影 賑わうほど淋しい

    理解されぬ孤独をみんな抱えてる

    誰にもコールしない

    誰にも送らない

    遠慮がちな言葉が非常ベルを鳴らす

    息を吐いて吸う 当たり前のことすらも難しい

    みんなの国にわたしが迷い込んだの?

    わたしの国にはもうわたししかいないの?

    だとしたら淋しいのは誰?

    わかった

    わたしも

    あなたも

    みんなétranger

『風の予約席』



@  スミレ色のキャンバスは

     渚に続くボードウォーク

     灯台へ泳ぐドルフィンの

     波の軌跡を追いかけた

     都会の喧騒に疲れたら

     Welcome board が目印の

     COTTON cafe の戸を開けて

     ハートに沁みるビターなアロマと

     どんな話題もブレンドで

     どうぞほっこり召しませと

     潮騒奏でるオープンテラス

     貴方のための予約席

A  色の褪めたフォトグラフ

     凪はたおやかボードウォーク

     積乱雲よりずっと高く

     紙飛行機の軌跡を追った

     都会は冷たく理性的

     Welcome board が目印の

     COTTON cafe の戸を戸を開けて

     笑顔も涙もココアもモカも

     どんな話題もブレンドで

     どうぞほっこり召しませと

     潮風薫るオープンテラス

     貴女のための予約席

B  COTTON cafe の扉の向こう

     時空を超えたユートピア

     言葉も愛も挽きたてで

     どうぞほっこり召しませと

     さざ波光るオープンテラス

     夢色絵の具の予約席